がんと向き合う

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河村 裕美さん
河村 裕美さん
(かわむら・ひろみ)
熱海市出身。静岡県庁勤務。1999年(32歳)に結婚。結婚して1週間後に子宮頸がんを宣告され、手術を受ける。闘病中の経験から、女性特有のがんサポートグループ「オレンジティ」を設立。子宮頸がんの啓発活動ティール&ホワイトリボンキャンペーン理事長。著書に『グローバルマザー』(2012年 静岡新聞社刊)。
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2退院後の孤独感

「ちょうど1ヵ月後の9月4日に退院しました。病院というのは守られた世界なので、トイレはベッドのすぐ近くにあり、歩いてもせいぜい4、5歩ぐらいのところにありましたし、また何か問題があったときは夜中でもナースコールをすれば看護師が飛んできてくれました。調子が悪くても、近くにいた同じ病気の方たちに『お腹が痛い』と言うと、『ま、私もそうだったわよ』というように、わりと守られた世界の中にいたのですね。情報も自分が欲しくなくても、自然と付与されていました。ただ9月4日に退院してはじめて、自分はがん患者で、もしかしたらすごい病気をしたのだなという実感が湧いたのです。家に帰って来てはじめて孤独感を味わいました。

実感したのは、家にいると自分の今の状態を説明してくれる人が誰もいなくなるということです。たとえばお腹が痛くて、『もしかしたらこれは再発かもしれない』とか、『もしかしたら先生がとりこぼしたのかしら』とか、それこそ『先生が鉗子をお腹に置き忘れたんじゃないかしら』とか、そういう仕様もないことを考えてしまうわけです。病院では、近くに看護師さんが来たときにそういうことを言うと、『そんなことありえないわよ、大丈夫』と言われて、それが安心だったのです。それが何もなくなって、ただその仕様もない妄想ばかりがずっと大きくなり、ひたすらそのことばかりを考えてしまったり、テレビを気晴らしに観ようとすると、そういうときに限って“がん”のことをやっているのです。美談にするためにがんの患者さんたちが最後に死んでしまうというところがあり、それを観るたびに恐怖が湧きました。もう(自分も)死んでしまうんのではないかという恐怖ばかりが先に立って、新聞を読んでもそういうところにばかり目が行ってしまい、ものすごい勢いで“がん”という言葉を探してしまうのです。本当に“がんばる”とか“ガンダム”とか、そういう言葉まで探してしまい、『あ、違う。自分はおかしくなってしまうのではないか・・』と思うくらい、すごくナーバス(神経質)になっていました。

私はわりと気が強いほうだと思うのですが、気が強い私でもこれほどナーバスになってしまうのだから、他の人はどうしているのだろうと思いました。それでインターネットの掲示板や患者会を探したりしたのですが、当時、子宮頸がんの患者会というのはなかったのです。インターネットを見ても、それぞれの思いのようなものは書いてあっても、やはりそれは自分の思いではないので、なかなか合致するものがなく、この思いをどうしようというのがありました。夫に言ってもなかなか理解されないし、ましてや(実家の)家族には言いにくいのですよね。やはり迷惑をかけている分、自分が悩んでいることを家族に言うのはよくないのではないかという自制心が働いてしまい、なかなか言えなかったのです。それで、こんなことをしていてはいけない、早く仕事に復帰しようと思い、11月の頭にはもう復帰してしまいました。」

●職場に戻る

「(仕事は)3ヵ月半も休んでいないですね。有給休暇をちょうど消化するぐらいで出て、特別休暇は使わなかったので。本当は、先生は『もう少しゆっくりしたほうがいい。年内ぐらい休んで、年明けから出て、徐々に慣らす程度にしてはどうか』というお話だったのですが、とてもそんなことはしていられないと思い、11月に出てしまいました。

何か社会からとり残されてしまうような気がして、怖くなったのです。自分で自分の存在を確かめるために、社会の中に飛び込んでいたいという感じでした。

やはり仕事をしている間は忘れるのですよね。他の方たちも、傷口が見えないと普通の人として扱うので、最初の1ヵ月くらいは腫れ物に触るような感じでしたが、だんだん12月、1月、2月となるうちに普通に働くようになり、後遺症などは普通の方たちには見えないので、それが結構救いになりました。その他人の行動を見て、『自分は普通の人間なのだな』と自分を確認したりしていました。」

●毎日が闘い

「職場に通うのにいちばん問題になったのが、お腹のコントロールでした。最初のうちはそれが上手にできず、おむつパッドをあてていないともうどうしようもない状態でした。職場でも、いつトイレに行きたいのかよくわからないのです。当時はその辺の折り合いがついていなかったので、ドキドキしながら生きていました。周りの人たちはそれに気がつかなかったみたいです。

手術の形態にもよりますが、Ib期の広汎子宮全摘を受けた方というのは、一緒に膀胱のところの神経も触ってしまうので、おしっこに行きたいという感覚がなくなってしまうのです。手術のあとは、膀胱が上手に動かないので、皆さん最初は導尿*の訓練をしたりして退院なさるのです。私も訓練をして退院して、自分でどうにか出せるようにはなっていたのですが、時間のコントロールが上手にできませんでした。今は上手にできるようになっていますが、その頃はうまくできず、いつトイレに行ったかを覚えておかないと、行きたいという感覚がないので、仕事をしているとつい忘れてしまうのです。自分がトイレに行っていないことすら忘れると、あるときフッとお腹に力を入れた拍子にバッと出てしまったりしました。排便障害のほうも、下剤を飲まないと出せない状態が続いていたので、それもなかなかその時間に行けばいいというものではなく、間に合わないことがあるわけです。そんなことを職場でやっている場合ではないので、その辺の折り合いをどうつけるかが毎日闘いでした。

* 導尿・・・尿道口よりカテーテルを挿入して人工的に尿を排出させる方法。

やはり結構きつくて、体力が落ちたなという感覚がありました。しかし、年明けぐらいからはもう残業もこなしていました。身体がえらくても、そのほうが気がまぎれるのです。気がまぎれるほうがよほどよくて、仕事をがんばっちゃいました。

(その後は)だんだん体と上手に付き合う方法を覚えて、何となく自分でも自信がもてるようになってきたというのがあります。」