「インターネット時代のアンチスティグマJPOP-VOICE」
夏苅郁子さん ●夏苅郁子さん
やきつべの径診療所
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[司会] 野村さん:続きましては児童精神科のお医者様で、お母様が統合失調症というご経験を持ちます夏苅郁子さんのご講演です。夏苅さん、どうぞよろしくお願いいたします。

●病のある親を持つ子どもの現実

夏苅さん:よろしくお願いします。森さんは大阪生まれで野村さんは東京で、私は北海道の生まれです。北海道人はとてもおおらかで開放的な人達なのですが、今日のお話はちょっと暗くなるかもしれませんけれど、みなさんどうぞ聞いてください。

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私は当事者と暮らす子の立場として思うことをお話しさせていただきます。まず皆さんに、親が精神疾患である子どもの現実を知っていただきたいと思います。

あくまでも私の例ですけれど、子どもは親が精神疾患であるというその意味を知る前に子どもとして暮らしているわけです。ですから私は、訳もわからずに母の幻覚や奇異な症状に怯える毎日でした。また、(母は)家事をほとんどしなくなりましたので、衣食住ともに適切ではない養育を受けました。それを聞いたマスコミの方から「あなたはなぜ外部に助けを求めなかったんですか」と聞かれたのですけれど、私は誰に何を求めれば良かったのでしょう。その答えは母が発症した40年前も、そして今もないと思います。病識のない患者さんを医療につなげるというのはとても大変なことであり、しかも子どもの立場で私に何ができたのでしょうか。私は施設に入りたいと願っていたわけではないのです。

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そういう感じで、私は母を身勝手な人と思い込んで生育して憎んでしまいました。その後、世に出て就職し、結婚などを通して世間のスティグマを思い知らされます。「母のようにはなりたくない」、あるいは世間への恨みから私は「見返してやろう」と思って医師になろうと思いました。でも、復讐心では心は健康にはなれません。

医学生になってから摂食障害や自殺未遂を起こして医学部5年時に精神科を受診し、教授の勧めから精神科医となりました。そういういきさつで医師になったので、30年あまり母のことは封印して凍った心で淡々と生きてきました。

そんな私の心をかろうじて支えてくれたのは、医療の専門家ではなくて地を這うように生きていた人達です。みなさん、今私がつけているコサージュ、見えますか? これは私に初めてできた親友が末期がんの病床で作ってくれたものです。彼女は在日韓国人でした。30年前の日本で在日韓国人であるということがどんなに厳しいものか想像に難くないと思います。私はスティグマの最たるものは人種差別だと思います。彼女は「いっちゃん、大事な時にはこれ身につけてね」と言ってプレゼントしてくれました。でも彼女は本当に尊厳を持って強く32年間の生涯を生きた方でした。そういった彼女の生き方が私へのピアサポートそのものだったと思っています。

●公表後

その後、54歳で私は中村ユキさんの漫画と出会って母のことを公表しました。私は生物学的な遺伝よりも劣等感や親への感情などの心理的ストレスが発症因子になるのではないかと思います。でも、現実には遺伝は無視できない壁です。子の恨みが当事者である親に向けられるとしたら、それは最大の悲劇だと思います。

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私は母のことを公表して、本当に多くの当事者や家族の方と会いました。そして統合失調症と向き合う覚悟がやっとできました。母への恐怖や嫌悪感は懺悔(ざんげ)へと変わっていきました。公表した時、母はもう亡くなっておりましたので遺影に詫びる日々を通して、私は少しずつ生き生きとした感情を取り戻せました。母との和解であり、統合失調症との和解だと思います。

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この回復の過程を多くの人に知って欲しいと思って、本を書きました。本は年配の読者の方が多かったのですが 「JPOP-VOICE」のようなインターネットは同じ境遇の若い人達に、病気への理解と結婚などこれからの人生への希望を持って欲しいと思って発表させていただきました。これが本(『心病む母が遺してくれたもの−精神科医の回復への道のり』(日本評論社)です。表紙に出した母の写真、この頃は発病前だったのですけれどもすでに父には外に女性がいて、とても大変な状況にあったと思います。

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私が本やインターネットで伝えたかったことは、患者の家族が回復する過程です。 どうして回復できたのかということ、2番目は、私は安定するまでに40年かかりました。回復には非常な努力と時間がかかることを皆さんに知って欲しいのです。だからこそ当事者への支援だけでなくて家族、とくに自らは訴えることができない子ども達への支援に目を向けて欲しいと思います。

また、病を抱えて生きること、その家族として生きることは通常以上に困難であると認識した上でも、私は、今、心から「自殺しないで良かった」と思っています。そのことを、今、死にたいと考えている人達に伝えたいです。また、母は78歳の天寿を全うしてくれました。その母に私は尊敬と感謝を感じています。病を持っても誇り高く生きることができること、そして症状には病気以外の意味もあるということを母から教わり、私は医師としても病者への見方が変わりました。

第4は、精神科医として改めて医療のあり方に疑問を持っています。「病気なんだから、それなりの人生でよし」とする見方が医療者にもあるのではないでしょうか。私は病気だからこそ「生きる意味」が必要だと思っています。母にとっての文学は、本当に生きる意味でした。

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また公表後の私の家族も大きく変化しました。

私は長い間夫や子どもにも自分の子ども時代のことは話せませんでした。話してもわかってくれないだろう、あるいは恨み話はしたくないと思っていたからです。私が中村ユキさんに会いたいと思ったのは、彼女ならわかってくれるだろう、そう思ったからですけど、逆に彼女しかわかってくれないだろうとも思っていました。でも実際は「JPOP-VOICE」や私の本を読むことで、当初公表に強く反対していた精神科医の夫が変わりました。家族みんなが公表の意義を理解してくれました。私は当事者や家族の側の内なるスティグマの問題もとても大きいと思います。インタビューを観た人達のその後のフォローも必要ではないかと思います。

●健康に育つ子ども達からのヒント
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でもみなさん、健康に育っている子ども達もいるのです。それを支援のヒントにするべきだと思います。

私は外来で、当事者の親は重症だが一家は健康というケースに遭遇します。そういった方達の共通点は、祖父母や親戚の具体的な支援があること、当事者の配偶者が理解力があり安定した人ということです。生育途上で最低限の健康な環境を整えることはスティグマを乗り越える必要最低条件だと思います。だからこそ具体的な、経済的な面も含めて生活支援を考えて欲しいし、これから結婚などを考える若い人達には安易な希望ではなくて根拠のある希望を与えて欲しいと思います。

最後のスライドですが、これは私が回復できた原点です。

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すごく古い写真でごめんなさい。母が入院中に私は親戚宅に預けられていたのですけれども、その時の私が4歳の時の写真です。一番右端にいる小さい少女が私で、お正月のお祝いの膳でした。私はこの写真を母の遺品を整理していて見つけた時とてもうれしかったです。伯母は実子である2人と分け隔てなく私を育ててくれました。私はいろいろ大変なことがありましたが、ぎりぎりのところで踏ん張れたのは、このようにたとえ数年間でも「大切にされた」という思いがあったからだと思うのです。過酷な状況下で乗り越えられる人と乗り越えられない人との違いは、なにも大がかりな支援が必要だとは限らないと思います。

私の伯母は、彼女のしたことが私の人生に大きな影響を与えるとは思っていなかったかもしれません。でもとても優しい人でした。私の母のお葬式はほとんど参列する人のいない寂しいものでしたが、82歳になる伯母が来てくれて、私は伯母の顔を見てやっと泣くことができました。その人の運命はその人のものであり、誰もとって代わることはできません。でもこの写真のように温かい思い出の一コマを作る手伝いは、皆さんの誰でもができることをお伝えして終わりにしたいと思います。ありがとうございました。

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