統合失調症と向き合う

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野村忠良さん
野村 忠良さん
(のむら・ただよし)
1943年(昭和18年)生まれの66歳。「家族会 東京つくし会」の理事として活躍。母親が統合失調症となり、少年期から苦悩の日々を送ってきた。30歳のときに父親と一緒に家族会に入り、それ以降、30数年にわたり家族会の活動に真摯に取り組んできた。現在も精神科医療の社会的な位置づけ、支援の広がりを目指す活動を行っている。
家族構成:父、母(病気体験者)、姉2人、妹1人
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5家族それぞれの苦悩について
●父の場合

「現在と言っても、もう父も母も亡くなっておりましてね、私も過去のことになっておりますが。まあ、その当時どうであったか、母がいた頃ですかね。父もね母を受け入れるまでには相当の覚悟があったと思いますね。なぜならば、父は良い大学を出て、そこの官庁で出世コースに乗っていましたから、将来は嘱望(しょくぼう)されたと思うんですよ。ところが母の発病でね、もう自分の人生はあきらめたと思いますね。で、この妻と子どもを養うために、自分はすべてを捧げようというふうに心を決めたんだと思いますね。それからはもう自分自身の将来の希望というものは犠牲にして、母を支え、私達を育て上げるということにすべてを注いだと思いますね。あらんかぎりの努力をしたと思いますね。

(父は)朝は5時には起きて、炊事をちゃんとやって。それは前の晩の夕食の片づけから始まって、そして会社に出かける。遠いところにありましたから。出かけていって、仕事を早めに終えたと思いますね、残業は断って。そして帰りに駅から近い市場によって野菜と魚を買って、そしてバスに乗らないでね長い登り坂の道を歩いて帰ってきたようですね。雨の日も、両手に風呂敷ぶらさげてね。

(夜)7時過ぎには帰ってくるんですよ。会社に頼み込んでたぶん早く帰ってきたんでしょうね。で帰ってくると、朝と昼の食事がそのままになっているわけですね。帰ってくると誰も何もやっていないから、それを父が全部片づけるわけですよ。帰ってくると、寒いときはコートを来たまま台所に立つんですね。それでひと言の文句も言わない。歯を食いしばったんでしょうね。自分も疲れたのを我慢してね。それで、ご飯を炊く間にようやく着替えをして、それからまた続きの家事をやって。で机の上をちゃんと並べて、『できたよ』って言ってくれるんですね、母の分も。でも母は食べにこないんですよ。で、1つだけ残っていたのを、あとで一人で食べにくるんですよね。

(父は)よれよれになって歩けなくなってからも買い物に行っていました。で、隣のうちの奥さんがですね、私にそっと、私がたまたま家に帰ってきたときに言ってくれたんですね。『あなたね、お父さん、道にしゃがみ込んで包みをもって、ときどき休んでいますよ。なんとかお手伝いできないんでしょうかね』っていったことを私に伝えてくれたんですよね。そうなのか、と思ってね。父はひと言も言わなかった。だから、僕がもう社会人になって働いているときでしたけどね、それからは私が父に電話で買い物の内容を聞いて、全部買って届けるようにしました。」

●父への不満

「私はそういう父を見ていてね、今でも心から尊敬しているし、大好きですね、父のことは。もうほんとうに愛していますよ。でも子どものときにね、父を手伝う気力が出なかったんですね。(でも)父はそういう私たちを許して、何も怒らなかった。

私たちは、父に感謝もしながらも、父にはいっぱい不満をもっていましたね、そんな中でその当時。なぜあんなに不満をもったんだろうと思うけど。それは私たちが辛かったからでしょうね。自分たちの辛さとか父のそういうなんて言うかな、ゆとりのある家庭ではしないことを父はするわけですよね。コートを着たまま炊事をするとか、タバコをたくさん吸うとかね。それから父は何かがあると灰皿の中で紙をちょっと燃やしたりしてね。メモ用紙とか。『なんでそんなことをするんだろう』なんてことをね。それから疲れたときに立て膝とかをするんですね。

まあ、その当時、ほんとうに貧乏でね。ちゃぶ台もなくて、格子のあったこたつの上にビニールを引いてその上に(食べ物を)並べたり、食事をするんですねえ、板もなくて。ほんとにものすごい貧しさですよ、うちはね。その父に、私達、やっぱり不満をもったんですね。『お父さんもっとちゃんとやってよ』と。今思うと、とんでもないことを私たちは父に要求していたなと思いますよね。」

●家族それぞれの苦悩について
 長女の場合:友達と

「長女も可哀想なことだったと思いますね。生まれて8年、8歳のときに母が発病したと思うんですね。妹がいたわけです次女が。それが猩紅熱(しょうこうねつ)で亡くなって…。母は長女よりも次女のほうが可愛かったんですね。自分の気持ちに合っていたんですね。ですから次女を可愛がったようです。その次女が突然亡くなってしまって、そのちょうど同じ年に母の実の父親が急に亡くなったんですね。ですから二人を亡くしてしまって、その母のショックをやっぱり長女も相当影響受けたと思いますね。(姉は)どうなるのかということを、両親の関係とかを心配しながらずっと育ったはずですよね。

で、戦争があってね。姉は昭和8年生まれですから、終戦のときには12歳ですかね。その中で姉はちゃんと勉強して高校も出て大学も入ってね。それは自分でアルバイトしたんですよね。その中でいろんな悲しみがたくさんあったんですけども、あまりにも悲しいことだから、ちょっと私も思い出すのが辛いんですけどね。

貧乏だったにもかかわらず、(姉は)お金持ちの人たちが行く大学に行ったんですね。なんでそんな大学に行ったんだろうと思うんですがね。まあ、当然友だちもできたし、恋人もいたんですが、うちに呼ばなきゃいけないような状況になって無理して呼んだんですよね。私も姉に呼ばれてあいさつに出たんですけどもね、私は冷や冷やしていましたね。母が何を言うかしらと思って。襖の向こうにいる母、寝ている母がね。でも姉はあえて(友だちを)呼んだんですね。とてもまじめな学校の先生を目指しているお二人、女性の友だちでしたよ。うちまで遊びに来てくれた。まあ、(姉の)アルバイトは、夜のアルバイトでしたから、お化粧もちょっと濃かったりしてね。で、友だちもだんだんだんだん姉がそうやってお化粧が濃くなったりしていくのを見て、離れていったんだと思いますね。」

●長女の場合:恋人と

「それから、恋人もいたりして。車を乗り回すような人で、その恋人が(姉を)うちまで送ってきてくれたときがあったけれども、その音で母が窓を開けてほんとうに失礼なことを叫んだんですよ、窓から。考えられないことをね。姉は車から降りて、たぶんもう全身が凍ったと思いますね、その母のひと言でね。それっきりになったと思いますよ、そのおつきあいはね。で母は窓をぴしゃっと閉めて、それっきりなんですよ。その恋人の方はどんな思いでね。姉はうちに駆け込んで、もう大泣きもいいところですね。心の奥底からね、泣き叫んでいましたよ。そのあと姉はやっぱり人生がどんどんどんどん転落のほうに向かっていったと思うんですが。自殺も考えたって言っていましたね、私には、あるとき。キリスト教の教会にも行ったって言っていましたね。

いろいろありましてね、それで最後は36歳で亡くなるんですが。恋人と言いますかね、籍を入れていないけども同棲していた男性と無理心中をしてしまったんですね。まあ姉はつき合わされたほうですけどねぇ。新聞に載ったりして。そのことで父はものすごく悲しんでいましたね。もうほんとに心の中で泣いていたと思います、その当時の父はね。姉はそのようにして最後は心にまったく平安がなく、もう泥まみれの気持ちになって亡くなっていったでしょうね。何の望みもなく。

でも、姉は姉なりに父のこともよくしてくれました。父に就労先などもちゃんと紹介してくれたりしたこともあるんですよ。父があるとき職安に行かなきゃいけなくなったときに。会社がつぶれたか何かでね。妹のこともかなり気にかけてくれていたし、私に腕時計買ってくれたりね。よくしてくれたことを思い出しますね。でも私に対しては非常に指示命令的なことがいっぱいあってね。男勝りの姉でしたから、まるで親分みたいにしてあれこれ言いつけられていたのを、私はいつも怒っていましたね。そういうことがあって妹とよくけんかをしていたと思います。

今思うと、ほんとにお姉さんたいへんだったねと言って、涙が出るんですけどね。お姉さんだって幸せになりたかったよねと。姉を慰めたかったという気持ちと、お姉さんに対する感謝、お陰で私たちも生き延びれたのかもしれないと。自分に余裕ができて、自分が心の中ではもう平安で、助かったなっていう思いがあるからこそようやく姉のことを思いやれる余裕が出たんだと思うけれども。

やっぱり母も姉も父も妹もそうだけど、心の病というのは、ほんとにたいへんなことなんだということを、人間がコントロールすることはとっても難しいものなんだということを痛切に思いますね。」

●家族それぞれの苦悩について
 三女の場合

「三女にいきますとね、私より3つ下。なぜ母が病気したのに父は2人も子どもを産ませたんだろうって思うんですよ。母が病気してまもなく私が生まれてね、その3年後に妹が生まれるわけでしょう。

私は北海道で生まれたんですね。その当時父は、全国転勤がありましてね。転勤で北海道に行ったときに私が生まれたんですが。途中、仙台に塩竈(しおがま)神社ってあるんですね。母はたぶん一緒に行ったときに、そこ(塩竈神社)で男の子を授かりたいというお祈りを、願をかけたらしいんですね。父はそのことを知っていて。で、私は母から『塩竈神社で願をかけていただいた子なのよ』ってよく言われたんですね。男の子がほしかったみたい。だから父は、たぶん次女が亡くなったあとに子どもが授かればね、(母の)病気が治るんじゃないかと思ったんではないかと思うんですよね。だけど、生まれたけど治らなかった。

じゃあ、次女に替わる女の子が生まれたら治るんじゃないかと思ったとしか、私には思えないのね。で妹が生まれた。その生まれた妹は、それぞれがそういう異常なほとんど会話のやりとりがない笑顔もない何もない、みんな悲壮な悲痛な顔をして生きている、必死の思いで生きている、母はおかしい狂っている状況で家事はめちゃくちゃで誰もしない。父はしていたけどね。そういう中で、妹がどんなに苦労したか。その当時もたいへんだろうなということはいつも(妹は母の)横にいますからね。姉はいつもいないんですよね、学校に行っていたり働きに行って。でも妹はいつも一緒にいましたからね。いつもそのたいへんさの分かち合いはありましたね。」

●三女との思い出

「妹とはよく外に遊びに行っていました、小さい頃。あるとき私と妹と一緒にうちに帰ってみると真っ暗なわけですよね、夕方。誰もいない。お母さんどこ行ったんだろう。近所の家は明るく灯がともって夕食の香りがしてくる。で、父も帰ってこない。その当時、父はちょっと遅く帰ってくることがあったんですよね。で、いくら待っても帰ってこないので2人でね、タオルをもち出して、妹がもってきたのタオルを、静座しながら窓から外を眺めてね2人で泣いてましたね。そういうのを憶えていますね。

そういう意味では仲良しでしたね。猫を一緒に可愛がったりしてね。母が猫を窓から投げて死なせちゃうんですね、どこかに私達が遊びに行っていない間に。母は猫が大嫌いですね。私達が帰ってみると猫が外の石にぶつかって死んでいるんですよ。頭を打ったかなんかでね。それを見たとき私達は泣きましたね、一緒にね。で、一緒に庭に(猫を)埋めてあげたりして。これはお母さんがやったんだろうねということを思いながらね。でも母になんにも文句も言わないでね、ただ泣いていましたね。それとか、妹はかけっこ上手でね。活発で。ちゃんと勉強もして中学も出て、高校は悩んだけれどもなんとか入れたりしてね。

でも妹は、自分の生い立ちについてずっと負い目、引け目を感じていましたね、劣等感をね。だから自分が、非常に教養のある人間になるにはどうしたらいいんだという気持ちが、あるときから非常に強くなってねえ。そのことで相当悩んでいましたよ。キリスト教の教会に一生懸命通ったりねえ。それからやっぱり私の真似をして文学書を読んだり、いろんな勉強を一生懸命にやっていましたね。

最後は、いい彼氏が見つかるんですね。何回も何回も彼氏はできるんだけれども別れざるを得なくなってね。家の事情もあったからね。最後の最後にある人に巡り会ってね。向こうの両親もいいって言ってくれましてね。うちの母にもその彼氏が会ってくれた。で母はそのときだけちゃんと着物を着てぴしっとしてレストランに行ったようですよ。そしたら向こうの彼氏が、『このお母さんだったらいいよ』って言ってくれて。うちの父にも会いましてね。非常に親孝行の思いの強い方でね。で、母はいろいろおかしかったけれども、問題にしないで妹を大事にしてくれました。子どもが1人生まれて、女の子がね。その子も成長してちゃんと栄養士の資格を取ってね、今は彼氏を見つけて結婚して、ちゃんとしていますけどね。妹にしてもそれはほんとうに喜びだったでしょう。で、家庭をもててね。今は家も新しく建て替えて、旦那さんと喜んで暮らしていますね。元気に幸せに。だから妹にとってはハッピーエンドなんですがねえ。それはうれしいです。」

●三女の提案:家庭内平和規則

「これ(家庭内平和規則)はねえ妹が、よく母と姉がけんかしてたでしょ。それから父と母、両親の中もよくないし、父が遅く帰ってくると母がすりこぎなんかをもち出してね、ふとんから飛び出して頭をごちんと殴るわけですよ。それがね、あるときすりこぎが折れちゃったんですよ。血は出なかったんです不思議に。母にしてみれば焼き餅だったんでしょうね。どこかで浮気して帰ったんじゃないかって。私たちにはそんなこと絶対に思えなかったんだけど、母はそう思ったんでしょうね。そんな家庭でしたからね、妹にしたら耐えられなかったんでしょう。みんな仲よくしましょうよっていうことをね、お掃除なども家事を分担してちゃんとやりましょうよということを、妹が提案したんですね。だから建設的な気持ちをもっていたんです。」

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