統合失調症と向き合う

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夏苅郁子さん
夏苅郁子さん
(なつかり いくこ)
1954年生まれ。児童精神科医。静岡県焼津市で精神科医の夫と共に「やきつべの径診療所」を開業。二人の子どもがいる。母親(1928年(昭和3年)生まれ)が統合失調症を発症し、苦悩の毎日を送る。両親の離婚後、父親のもとに残った夏苅さんは母親と会うことを約10年間拒否し続けたが、友人の仲介で再会。その後、漫画家の中村ユキさんの本『わが家の母はビョーキです』を知り、母親の病気と正面から向き合うことを覚悟する。母親は78歳で亡くなる。現在は統合失調症の理解を深めてもらうために講演会などで自身の体験を語っている。夏苅さんのコラムはこちらです。
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4病気が及ぼす家族への影響
Q.夏苅さんとお父さんの日常生活はどのような状況でしたか

「父は(家に)帰ってきません。各地に女の人がいたので。帰ってこないので、父はまったく困らないんですよ。母が暴れさえしなければね。

私は、もう(母を)当てにしない。毎日同じものを食べていました。だから今も、1年間同じものを食べても平気です。小学校の時から同じものですから。お弁当も、高校生の時には白いご飯にチーズを入れて持っていったんですね。(母とは)距離を置いてしまったし、ちょうど反抗期でしたので、近づかないでいようと、そういう感じでしたね。」

Q.お母さんの病気をどのように認識していましたか

「10歳ぐらいの時は、もちろん分からないですよね。と言うか、やっぱり当てつけ。父親がそういうこと(女性問題)で、父を怒っている、ヒステリーとか、困らせようとしていると思っていました。

さすがに入院してからは、いわゆる精神分裂病(現在の統合失調症)という病気の名前は知らないまでも、発狂とか、そういうことは分かっていました。それでも、やっぱり非常に自分勝手な、自分のことしか考えずに行動している人という思いが抜け切れなくて、嫌悪感のほうがずっとありました。

大人になってから、自分はやっぱりちゃんと躾(しつけ)をされないで育った。同じものを食べていましたから料理もできないわけですよ。それから家の中が非常に汚かったんですね。そういうことも恥ずかしかったし。たまに、従兄弟(いとこ)の家に行くと、すごくきれいなものですからね。そういうことが、大学に入ってだんだん分かってくると、それも母への嫌悪感になりましたね。

その次に、(私は)医大生でしたので、精神医学の講義を受けるわけですよ。そうすると、私が家族だということを先生は知らないので、家族へ思いやった講義をするわけがなく、ストレートにくるので、『ああ、そうだったのか』ということが、事例が母ですから、すごく分かってきて、『次は自分かな』と思いました。そう思うと、ますます母には近づけないですよね。(それで母とは)全然連絡を取らないで過ごしました。」

Q.夏苅さんの精神面への影響は?

「父親は非常に社会的にダメージを受けました。社長さんにまで、母はいろいろなことをしてしまったので。それを見ていて、私は非常に努力したわけです。勉強して、努力したけれど、母といると、自分の人生も父のように潰されるのではないかというのが怖かったです。それから発病の恐怖とかで、いろいろなものと向き合えないので、(母と)断絶ということになったんですけれどね。」

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