統合失調症と向き合う

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コラム「なぞを追う」 夏苅郁子さん

第2回 「三途の川を渡る」ということ(後編)

私の自殺未遂

次の思い出は、私自身の自殺未遂です。

世間への恨みから、半ば意地で医学部へ入ったものの、そのような動機づけの学生は見渡したところおらず、私はなかなか心を打ち解けられる友人ができませんでした。

また、私が大学に入学してほっとしたのか、父から「お父さんには、好きな人がいる」と伝えられました。行きつけの飲み屋の女将さんで、父は仕事帰りにそこに寄って愚痴を言ったり寂しさを紛らわしていたのだろうと思います。

母とは正反対の明るく社交的な性格の人で、父との関係がなかったらきっと仲良くなりたい、と思っていただろうと思えるような人でした。

私はその人に対して、父を支えてくれたことに感謝する気持ちと、でも、どうしても受け入れられない気持ちの両方に苦しみました。いっそ、父が私のことを放り出してくれたなら、それはそれで気が楽になったとも思うのですが、私は父にとって自慢の娘でした。

製薬会社の営業マンだった父は、自分よりはるかに若い医師たちに毎日頭を下げて薬を売っていました。私が医学部に入学した時、父はこれまでに見たことがないくらい喜んでくれました。娘が医師になることは、父の日々の屈辱感の解消になったのでしょう。

だから、父は当然のように新しい家庭に私を連れて行きました。それを拒否してしまうことは、当時母のことも拒否していた私にとって、二親とも拒否することになってしまいます。

そして、最も私を苦しめたのは、奇妙に聞こえるかもしれませんが「父への失恋」です。

母が精神科病院へ再入院し、その後父と離婚して実家へ戻された後、私と父はほんの数か月でしたが、二人だけで一緒に過ごした時期がありました。医学部に合格したことで、父の機嫌はとても良く、私にも優しくなりました。

また、母親がいなくなったことで父なりに私に気を使ってくれたのでしょう。

そんな優しい父が自分の傍にいることが、信じられないくらい嬉しかったのです。

一度、父と旅行をしたことがありました。

私は父とまったく似ていなかったので、旅先で年の離れた「恋人同士」に見られることもあり、それがまた嬉しかったのです。

父は、写真で見てもダンディーな素敵な人でした。

男性とのつき合いどころか、まともな人づき合いをしたことがなかった私にとっては、初恋に近い存在だったかもしれません。

その父が、いきなり後妻さんとなる人を家に連れてきて「今夜は、この人をここに泊める!」と言った時、私の中の何かがガラガラと崩れていきました。

こういった心理は、フランソワーズ・サガンの『悲しみよ こんにちわ』や、三島由紀夫の『午後の曳航』にも、よく描かれています。

子供時代に見てしまった両親の愛憎は、その子が思春期・青年期を迎えた時、家族を破壊するほどのマイナスのパワーに、いびつに形を変えて戻ってくるのです。

私は、小説の主人公のような行動をとる勇気はなかったのですが、自身の破滅的な行為は、間接的には父の新しい家庭を壊しました。

結果として、せっかくうまくいくようになった父との関係も悪くなり、私は身動きできなくなりました。

「自分は存在しないほうが、いいのではないか?」、長い葛藤の末に、こんな考えが私の頭の中に、いつしか居座ってしまいました。

そうなると、年がら年中死ぬことばかり考えるようになりました。

バスに乗っていて枝ぶりの良い松を見ると、「あの枝なら、ぶら下がっても折れないだろうか」と値踏みし、スーパーでトイレットペーパーを買う時も「2つ買うと死んだあと余るから」と考えて、1個にしたり、何を見ても思うことは「死」でした。

家族という底なし沼のような苦しさから逃げるには、「死」しかないと思い込んでしまったのです。

そうこうしているうちに、私の周りの大切な人が次々と亡くなっていきました。

一人は同僚医師で、自死でした。

「死にたい」と言う気持ちで気が合っていた私たちでしたが、なぜ彼女が一人で先に往ってしまったんだろうと、当時はそんなことばかり考えてしまいました。今は、彼女が私に何も言わず去って行った意味が分かります。当たり前ですが、彼女は彼女の人生を生き切るしかないし、私は私の人生を生き切るしかないのですから。

その頃、新米医師として担当させていただいた10代の患者さんが自死されました。

「私は、自身の人生だけでなく友人としても医師としても、誰にも何もできないのか」と無力感に苛まれた時期でした。

また、生まれて始めてできた親友の死がありました。在日韓国人だった彼女は、36歳という若さでがんで亡くなりました。

私は身内同然だからと、彼女の希望で一緒に主治医から彼女の病状を聞く席に同席させてもらいました。病名を聞く時も余命を聞いた時も毅然としていた彼女は、死に向かう時も凛としていました。病室で一人で臥せっている時には、どんなにか不安や悔しさに襲われたか、計り知れません。でも、彼女は最後まで「いっちゃん、体に気をつけて子育てするんだよ」と励ましてくれました。

人の死に際は、本当にさまざまです。