コラム「なぞを追う」 夏苅郁子さん
第10回 絵心(えごころ)と歌心(うたごころ)(前編)
心で描いた風景
運動も下手で友人もいなかった私だったが、それでも得意とする科目はいくつかあった。その一つが美術だった。
一人っ子で親もかまってくれないので、遊びはいつも本を読むか絵を描くかのどちらかだった。だから、私の絵は独学である。
「習うより慣れろ」は本当で、授業で描いた絵が市の展覧会で度々入選することがあり、絵の具や画材は賞品で賄えた。
きちんと習ってもいないのに何回も賞状をもらって、私はひそかに「自分には絵の才能があるのでは」と自惚れていた。
そんな私が、鼻をへし折られる出来事が起きた。
中学で、全校写生大会が行われたある日のことである。近くの公園で、生徒達は思い思いの場所で写生をしていた。
その中に座っていた私は、欲の塊になっていた。
「今日は金賞を取ってやるんだ!」と意気込んで、スケッチから色塗りまで念入りに技巧を凝らして描きあげ、自信作ができあがった。
私の近くで写生をしている、賑やかな集団があった。その中心にいた女子は、クラスの人気者だった。スポーツ万能でかわいくて勉強もできたが、彼女が皆から好かれていたのは、何よりも明るく屈託がないその性格だった。私から見ても惚れ惚れするような笑顔の持ち主で、天真爛漫・陰りのない顔とはこういうものかとつくづく思った。
自分は生涯手にできないものを彼女は持っていることに、思春期の私は深く嫉妬した。何をしても彼女にはかなわないが、せめて絵だけは負けたくないと私は思った。彼女は、絵も上手だったのだ。
彼女の絵の描き方は、私の描き方とはまったく違っていた。
私は、対象物を忠実に写し取ることならかなり上手だと思っている。
私の絵は、対象物と画用紙の間を何回も往復して眼で追った努力の賜物の絵だと思う。努力した分だけの評価は一応得られる。
しかし、芸術とは時に残酷なものである。努力ではどうにも追いつかない、素質や天性のセンスが物を言う世界だ。
ひまわりのような笑顔を持つ彼女の絵は彼女と同じく陰りがなく、また努力して描いた絵ではなかった。
私の横で、こともなげに一気に描きあげたその絵を見て、私は愕然とした。
初夏に特有な生き生きとした青い緑の葉やキラキラ光る水面、どこまでも広がりを見せている空や今にも動き出しそうな白い雲……本当に彼女の画用紙の中で、心地良い「夏を運ぶ風」が吹いていた。
彼女の絵は、これからぐんぐん伸びる初夏のエネルギーを確実に捉えていた。この絵を、私は今もはっきりと憶えている。
私は、これはもう問題にならないと思った。自分では素晴らしい絵は描けないが、素晴しい絵を見分ける眼だけはあると思っている。テクニックではない、何かが彼女にはある。その事実はとても悔しかったが、誰にでもあるものではないからこそ才能とは尊く、芸術は人の心を掴むのだろう。
私に「参りました」と言わせた彼女の絵だが、さらに後の話がある。
彼女は、その素晴らしい絵を地面に置きっぱなしにして、友達と走り回って遊んでいた。
がっくりしていた私の前を、彼女の絵が飛んで行った。風に乗り、なんと池に落ちてしまったのだ。慌ててみんなで拾いあげたが、素晴しい絵は水を被った絵となってしまった。彼女への嫉妬より、その絵の素晴らしさに感嘆していた私はがっかりしたのだが、それでもその絵は金賞を取った!(私は、佳作だった)。
才能とは、天性だからこそおおらかなものなのだと実感した出来事だった。
生まれつき盲目の日本人ピアニストが、海外のコンクールで優勝し話題になったことがある。生まれてから親の顔も光も一度も見たことのない彼は母親に、「今日の風は、何色?」と聞いたという。彼は一度も空を見たことがないが、「風の色」は見えるのだと思う。
本当の絵心とは、彼が見たような「心に映る風景」を描ける力なのだと思う。自分の絵心は見たものをそっくりに写し取る力だけで、心の風景は描けなかった。
私は、自身の絵の才能にはきっぱりと見切りをつけた。