コラム「なぞを追う」 夏苅郁子さん
第14回 「氏より育ち」か「血は争えぬ」か……(前編)
褒め言葉
本コラムの拙い文章を、(素人としては)「味のある文だね」と言ってくださる方がいる。恐縮すること極まりないが、お褒めの言葉の最後に決まって「お母さんの血筋ですね」「やはり、血は争えないね」と言われると、複雑な思いがする。
私の母は終生文学を生き甲斐とし、まったく売れなかったのだが大手出版社から句集を5冊も出した。私に褒め言葉を言ってくださる方は、そうした事情を知る方々である。
「そうですね」とにっこり笑って受けとめれば良いのだろうが、「血は争えぬ」は私の場合はドキッとさせられる言葉でもあるのだ。
私の母親は、統合失調症という精神疾患を患っていた。
子どもの頃、父親から「あんな女にはなるな」と何回も言われた。家を追い出され離婚させられた母に対して親戚の目は一応に冷たく、「いっちゃんは、お母さんに似ている」は絶対禁句だった。実際には、私と母は姿形から性格までとても良く似ていたのだけれど。
母の症状が酷かったため、子どもの頃から50歳半ばまでは母と似ているのが嫌で嫌で仕方なかった。わずかに手元に残っていた家族写真さえ、見たくなかった。似ていない所を必死で探して生きてきたように思う。
私は一人娘なので、母が亡くなると母の遺品が介護ヘルパーさんから私の所へ全部送られてきたが、中を開けるのは気が重くずっと開梱されずにそのまま置いてあった。
5年前に母と自分の事を公表したことで、各地で私の一家の話をすることが多くなった。語りながら、私は母が何を考えていたのか何も知らなかったと気づいた。元々無口な人で、あまり自分のことを言わない人だった。
多くの当事者さんやご家族と話すうちに、娘としても精神科医としても母と向き合うことから逃げてきた私の気持ちが少しずつ変化していった。
向き合うことは、そんなに怖いことではないかもしれない……、少しずつそう思い始めた。
やがて「母のことを知りたい」と思うようになった私は、「母調べ」を始めた。母の死後7年目に、やっと母の遺品の箱を開けてみる気になった。
大学ノートにびっしり埋められた書きかけの小説や俳句の中に、母の服も入っていた。
母は手先が非常に器用な人で、着る服はほとんど自分で作っていた。
洋裁ができたこともあるが、父が給料を家に入れなかったため服を買うことができなかった事情もあった。
箱から出てきた見覚えのある母の服を手に取ると、母と暮らした子どもの頃の光景が浮かんできた。
母の服のデザインは、実は皇后美智子様のお召しになっていた洋服をまねて作ったものだ。母の若い頃のファッションリーダーは、当時皇太子妃だった美智子様である。白黒テレビに美智子様が出ていると母はじ〜とそれを見て、チラシの裏にそのデザインをさっと書きとめた。そしてそれを元に型紙を作り、押し入れにあるもらった生地や余った布地で服を作ってしまった。
私は足踏みミシンの傍にちょこんと座り、母がまたたく間にさっきテレビに出ていた美智子様が着ていらしたのと同じ服を作り上げるのを見ていた。目の前ででき上がっていくのを「魔法みたい!」と思った。
母は何と美智子様と同じ帽子まで作り上げ、でき上がった服を嬉しそうにいそいそと身にまとって、「どう?きれい?」と私の前でクルリと回ってみせた。
まだ、母の症状がそれほどひどくなかった頃の、私の子ども時代の思い出である。
そんな情景を思い出しながら、箱の中にあった母の服に袖を通して見る。
鏡に映ったわが姿を見て、驚愕した。若い頃の母に瓜二つだった。
以前ならぞっとしたところだが、その時の私は訳もなく涙が出た。悲しい涙ではなく、服から母のぬくもりや息遣いが伝わってくるようで、やっと素直に母に会えたような嬉しい涙だった。
私は、その時から家族会の講演会には母の服を着ていくようにしている。母の病気の症状だけではなく、不幸な結婚生活においても自分ができることを工夫しながら努力して生活しようとした母の「強い」一面を、同じ病の方々へ伝えたいと思ったからだ。
母の服は、今では私の回復の証ともなっている。
50年前の骨董品のような服なので、破れないようにそっと袖に腕を通す。通すたびに、母との距離と心が近くなっていく気がする。母と同じ世界へ行く日の事も、恐れではなく身近に感じるようになった。老いていく、とはこういうことなのだろうか。
「お母さんに似ているね」……、今は「はい!」と誇らしく言える私になった。文才はとても母には及ばないので、「そうです」とは頷けないのだが。