統合失調症と向き合う

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コラム「なぞを追う」夏苅郁子さん 「三途の川を渡る」ということ(前編)

父の死

私の父は、62歳でがんのために亡くなりました。

がんが見つかった時にはすでに手遅れで、手術はしたものの発見から6か月の闘病で亡くなりました。

母といた頃は放蕩を繰り返した父でしたが、再婚してからは人が変わったように真面目になり、がむしゃらに働いて最後は会社員としてはかなり出世しました。所謂「企業戦士」で、まだ現役中の死であったため、お葬式は社葬で葬儀委員長は社長さんで、数百人が列席した立派なものでした。

また、サウナのついた別荘まで建てましたが、生前は忙しくて住む暇がなく、「定年になったら、のんびり住もう」という老後の計画は1日も住むこともなく、叶いませんでした。

最後は、抗がん剤などあらゆる医療を受け、最期も恐らく何らかの鎮痛剤が入っていたようで、まだ老齢とは言えない年齢にしては、静かな死に際でした。

私は、あまりにも対称的な両親の死に際を見て、始めは「母は、葬式も寂しかったし可哀そうな人だったなあ」と思ったものです。

でも、考えてみると父は残す物があまりに多く「無念の死」だったのではないかとも思うのです。

父は、母と離婚してからビジネスの世界の成功者として、「心の病」は自身の人生から排除しました。「医学部に合格したんだから、しっかりしろ!」と、よく私を鼓舞しました。傍で見ていて、いつまでも精神的に安定しない私を歯がゆく思ったのでしょう。父とはそんな関係でしたので、とうとう、私は父と母のことで話しあうことはできませんでした。

でも、本当に父は自分の人生において、母に象徴された「心の病」を排除できたのだろうかと疑問です。

父の心の内は分かりませんが、父が作った新しい家族は、まるでガラス細工のように脆かったのです。些細な言葉の行き違いさえ揉め事の素となり、みんなバラバラなのに必死で「家」を守ろうとしていました。

私自身は、そんな父の家を出て正面から母の病気と向き合った時から、内面の世界が広々と自由になりました。

両親が離婚に至る前に、誰かの援助があったなら、私の人生だけではなく母や父の人生ももっと違ったものになっていたかもしれないと、「せんないこと」を時々考えています。