統合失調症と向き合う

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コラム「なぞを追う」夏苅郁子さん 「才能は、天下の回りもの?(中編)」

母の才能

私の母は、文学に命を懸けた人でした。

母の死後、遺品を整理していたら、東京行きの寝台特急の切符の半券が出てきました。俳句の大きな句会が東京であったため、それに参加するための切符でした。母は当時、重度の緑内障のため、ほとんど目が見えませんでした。

そんなことはものともせず、母は視覚障碍者用のガイドヘルパーを頼んで1人で札幌から東京へ行ったのです。あとで会の人から、「お母さんは、紙おむつをはいて、東京まで来たのよ」と聞きました。列車内ではヘルパーさんは付かないので、目がよく見えない母はトイレが心配だったのでしょうが、あのプライドの高い母がそうまでして句会に参加したいと思った文学への情熱は、考えてどうこうするといった生ぬるいものではなかったように思います。

母は、絵にも関心がありました。

私が小学校1年の頃、母は私を連れて京都の裏小路にある「裸婦を描く会」に出入りしていました。夜遅く始まったその会には、子どもは私しかいません。

みんな真剣に、目の前の裸婦を一生懸命書いていて、咳一つ聞こえないほど静かでした。

私も、余った紙を持たされて一人前に書いていたのですが、裸のそのお姉さんがこの世のものとは思えないほど綺麗だったこと、横で描いていた母の横顔も、現実を超越したような、子どもの私でさえ近づけない神々しさがあったのを、よく覚えています。

きっと、その場には「絵の神様」が降り立っていたように思います。

みんな、凍りついたようにその場から動かず、ただ絵筆を動かしていました。

母は、同世代の奥さんたちのような時間の過ごし方を、まったくしない人でした。ともかく、一日中本ばかり読んでいました。母の読んだ本が、天井まで積み重ねられていたのを見て、この家はいつか本でつぶれるのではないか、と恐ろしく思ったものです。

最後は、文字通り筆を持ったまま倒れ、孤独死しました。

母の「文学の神様」はよそへお散歩にも行かず、ずっと母の傍に居座ってしまったようです。エリザベス・ギルバートや都はるみさん・松本人志さんの「才能の神様」は、そこそこ彼らの所にいると、またどこかへ行ってしまう神様だったのでしょうか。

ただ、母にとって不運だったのは、「文学の神様」と「世俗的な利益」が一致しなかったことです。母は、統合失調症という病気になってしまいました。

もし、母の才能が何かの形で世間で評価されたなら、母は芸術家という表現で生きることができて、発病という表現をとらなくても済んだかもしれないと思います。

家族として、母へ何もできなかった人間の言い訳かもしれませんが。

晩年、母が珍しく私に母親らしい顔で、こう言いました。

「平凡でいなさい。平凡が、何より幸せなのよ。」

およそ平凡とは言い難い人生を送った母が、娘に言い残した言葉です。

母にとって「文学の神様」は、仲良くできるような悠長な相手ではなく、生きるか死ぬかの相手であったんだろうと、平凡な娘である私は思いました。

天国では、「文学の神様」と仲良く過ごしていればいいなあ、と思いながら母を偲んでいます。