コラム「なぞを追う」夏苅郁子さん 「時間を超えて、歴史に遊ぶ(後編)」
時間を使い切って、行きつく所
みなさんは、縄文土器や弥生土器に触れたことはありますか?
古代人と共に時を共有し、そして2,000年を経て今は現代人の手の中にある。カラカラに乾いて軽くて、本当に時間も重力も超越したような存在だ。
そんな土器を見ていると、いろいろなことを思い浮かべる。
高齢者施設で介護を受けている、非常にご高齢の方々を見かけることがある。食事も自力で嚥下(えんげ)できず胃ろう*が入っており、排泄も全介助、問いかけにも反応しない。
かつては生き生きと生活されていたお身内の今の姿を、切なく思いながら介護されているご家族も多いと思う。
評論家の芹沢俊介さんが、長年のお母様の介護を通して感じたことを「母といる時間」という短文に書いている。
『今の母は、顔に止まったハエを追うこともできない。言葉も発せられず何かをする、と言う点ではもはや何一つ自分ですることができない。「すっかり衰えてしまった」。こう思うのは、衰える前との比較でしかない。「老い」とは、それまで身につけた様々なものを脱ぎ捨てて、ただそこに「ある」という存在に近づいていくこと。それは、究極の「いのちの現れ」ではないか』。
人間も動物も、「生まれること」で何かを身につけ、「老いること」で何かを脱ぎ捨てて「そこにある」状態に返っていく。それを連綿と繰り返して、歴史を作り未来に繋げている。
今、日本は世界が経験したことのない超高齢化社会に突き進んでいる。
私も家族も、確実にお婆さんとなりお爺さんになっていくが、潔くいただいたものを脱ぎ捨てて、「そこにある」状態になりたいと願う。
認知症に見えたとしても、頭の中では2,000年の弥生土器や古代杉を思い浮かべているかもしれない。
皆さんも、古代への雄大な時空の旅を味わってみませんか?
*胃ろう:口から食事の摂れない方や、食べてもむせて肺炎などを起こしやすい方に、内視鏡を使って腹部に小さな口を造り、その口から管を使用して栄養を入れる方法。