統合失調症と向き合う

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コラム「なぞを追う」夏苅郁子さん 「「氏より育ち」か「血は争えぬ」か……(後編)

人の回復には、予想外の展開がある

医学は科学であるから、そこには客観的な検証が必要だ。

しかし人間は生物であり、生物学の世界は「絶えずサイコロが振られている」。

私は診察時に患者さんのご家族が、「当人が、また無理なことを夢見て無茶をやろうとしている。再発・悪化を繰り返すたびに、回復が遅くなると聞いたので、もう大きな夢など持たずに、薬を飲んで静かに過ごしてほしい」と言うのをよく聞く。

悪化した時、どんなに本人が辛い思いをするかを知り尽くしている身内の、切実な思いである。

一方で、ある青年から「自分の目標が家族にも医療者にも受け入れてもらえない。自分は何を生きがいに生きて行けばいいのか」と質問された。

私も精神科に通院していた頃、「薬をきちんと飲んでいるか」をまず治療者から聞かれた。「自分は薬を飲むために存在している」気がして、治療意欲をなくしてしまった。

家族は症状管理と再発予防が責任と考え、専門家がそれを後押しする関係は現在でも続いている。

上記の質問に答えるには、「病識とは何か」「回復とは何か」から考えなくてはならない。そして、もっと考えなくてはいけないのは「症状とは何か」「病とは何か」である。

回復には薬や休養はもちろん必要なのだが、ただ薬を飲んで休養するだけで人は元気になれるのだろうか?特に、青年期の人が、そんな(高齢の)年金生活者のような生活をして、生きる力が出るのだろうか。

人が夢や生きがいを持つと、その人の行動様式も変わってくる。考え方が変わるのだから行動が変わるのは当たり前なのだが、そこに「病気」という視点が加わるとややこしいことになる。

夢へのチャレンジは、妄想や症状悪化と片付けられてしまう。

悪化を繰り返すと、脳に不可逆的な変化をもたらす……、そうだろうか。

全国の家族会・当事者の会でたくさんの方とお話をすると、やはり「再発を繰り返すと、脳が壊れていくんですよね?」と尋ねられる。

医師として精神疾患の早期介入・早期治療の大切さは伝えなくてはいけないが、繰り返す再発が決定的に悲惨な末路となるような印象を精神医学が当事者や家族に与えてしまっているとしたら、それは修正すべき点だと思う。

どれだけ家族や地域が説得しても医療につながらない方、せっかく治療を受けても中断してしまう方もいる。精神科医療には、そうした方が多い。

適切な治療が受けられるように我々がもっと努力すべきなのだが、「繰り返し再発すると人生は終わり…」と考えられてしまうのは、誤解があると思う。

再発時の脳の中で何が起きていて、どんな状況が危険であるかを科学としてきちんと解明して当事者・ご家族に説明することが、偏見や誤解を防ぐ道だと思う。精神医学の進歩を期待し、私のような開業医でもできることを協力していきたい。

本年(2016年)、群馬で開催された第11回日本統合失調症学会で開催された市民公開講座での家族会役員の岡田久実子さん(さいたま市精神障がい者もくせい家族会)、島本禎子さん(NPO 法人あおば福祉会)の「統合失調症になっても大丈夫な社会を願って」という言葉は、精神疾患に限らず社会で共有すべき言葉だと思う。

そしてもう一つ、同学会で講演された当事者の加藤史章さんの「再発しても安心な社会へ」という言葉も、私たち医療者は胸に留めるべきだと思う。

「人の回復には、予想外の展開がある」という言葉が、否定されない世の中であってほしい。

「氏より育ち」「血は水より濃い」……いろいろな言い方があるけれど、少なくとも今の私は「安心」して母の服を着ることができる。それは、発病した・しなかったという考え方からではなく、懸命に生きた母の人生を尊敬できるようになったからだ。

そして、安心できるようになったもう一つの理由は、遺伝について冷静に考えられるようになったからだと思う。

尾崎紀夫さん(名古屋大学)が、鎌状赤血球症という遺伝子疾患を例にして「臨床症状として何に着目するのか、置かれる環境により疾病か否かは異なる」「疾病と健康は可変的」と話されたことがある。鎌状赤血球症は、遺伝子型がヘテロ接合型の場合、低酸素状態でのみ発症するので、高い山にでも登らない限り遺伝子は持っていても発症しない。

*鎌状赤血球症:赤血球の形状が鎌状になり酸素運搬機能が低下して起こる貧血症

遺伝子の存在自体を否定したり過剰に悲観的になるのではなく、環境によって発症するかしないかも変わり得る、という考えを持つことは、病を抱える当事者やご家族にとって大きな指針になると思う。そうした話をきちんと聞き受けとめられるような、遺伝相談の必要性を強く感じる。

当事者・家族にとって辛いのは、いいかげんに「一般論」で片付けられてしまうことである。

発症したとしても再発したとしても、そこに医療も含めて社会の中に何らかの希望が見つけられるようになってほしい。

どんな病気も忌み嫌われることのない「安心」な社会になるように、家族としても一医療人としても願う。

皆さんは、どう思われるだろうか?