統合失調症と向き合う

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コラム「なぞを追う」夏苅郁子さん 「三途の川を渡る」ということ(前編)

私の出会った死

愛犬の死を契機に、私はいろいろな死を考えるようになりました。

私が憶えている最初の死は、母方の祖母のお葬式でした。

まだ小さかった私は、よく事情が分からなかったのですが、普段は家に帰ってこない父が毎日家にいて、母がずっと泣いていたのを憶えています。

祖母は母とは似ても似つかぬ、でっぷりと太った人の好いおばあちゃんでした。祖父はいつも眉間に皺を寄せ目つきの鋭い人だったので寄りつきがたく、私は祖母になついていて、母の実家へ行くと祖母に遊んでもらっていました。

母にとっても心の拠り所となっていた人でしたので、脳出血で祖母が急死したことは母にとっては、とてもショックなことだったと思います。

祖父はその後再婚しました。人が好いだけで他に取り柄もなかった祖母を揶揄して「今度は、もっと気の利いた嫁をもらうんだ」と祖母の葬式の席で言う祖父を、母が悲しそうに見ていたことは、今でもはっきりと憶えています。

そして、奇しくも私の父が同じ言葉を私に言いました。精神を病んだ母の処遇に疲労困憊し、母と離婚・再婚した父が後妻さんを指して「このお母さんは、いいだろう。俺は、やっとまともな暮らしができる」と父が言った時に、私は祖母の葬式の時の祖父の言葉を思い出しました。

母が精神を病むのは祖母の死からずっと後ですが、この時、すでに母の病の芽は出始めていたのかもしれない、と思うのです。

私が「もしかしたら、自分も病んでいくのでは?」と思ってしまったのは、こういう場面の再現があったことも影響していると思います。

そう考えると、やはり「家族は、1つの姿が幾重にも重なる合わせ鏡のようだ」と思うし、不幸は掘っても掘っても底のない井戸のようにも思えます。

だからこそ、「家族」とは手入れをして大事に大事に育てていかなければならないと思います。