統合失調症と向き合う

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コラム「なぞを追う」 夏苅郁子さん

第19回 動物、大好き!(後編)

摂食障害との闘い

私は、青年期から今でも摂食障害の患者だと自分のことを思っている。

今は日常生活には大きな支障がないので、本田秀夫氏の述べる「非障害自閉症スペクトラム」(日本評論社 こころの科学171号:成人期の発達障害)をもじって「非障害摂食障害スペクトラム(何のことか分からない?)」と自分で解釈している。

とは言うものの、家族と同じ物を食べず自分だけ毎日決まった物しか食べないなど家人には迷惑をかけているが、あきらめてもらっている。困るのは、講演などで各地を訪れた時、主催者が好意でその土地の名物を御馳走してくださる時だ。原則として、私は何を食べてもまったく同じ味に感じてしまう。

「どうですか?おいしいですか」と期待を込めて聞かれると、なんて答えようかと当惑する。

青年期の私は、教科書通りの典型的な摂食障害だった。

拒食期と過食期が交互に来て、特に過食期が苦しかった。医大生時代、医学の大切な講義を受けている最中にも食べ物のことばかり頭に浮かんで、まったく集中できず「早く帰って、食べたい」とばかり考えていた。授業が終わると速攻で帰宅し、饅頭やあんパン、赤飯など炭水化物の食べ物を山のように食べまくり、気が済むと猛烈な後悔に襲われた。私は不器用で吐けなかったので、妊婦のように膨れ上がったお腹が自然にへこむのを待つしかなく、3日くらいは水を飲むのも嫌になった。

過食期は、頭にあるのは食べ物のことばかりでまったく勉強意欲が出ず成績もビリに近いのだが、拒食期になると別人のように勤勉となった。あらゆることに自己コントロールが可能なように思えて、すべてが合理的に進むように見えた。体重が30キロになった時は、体は衰弱しているのだが、そのフワフワした感覚が“植物”になったようで心地よかった。

今でも「植物になりたい」という感覚は残っている。

食べること=生々しさ、という感じがして、植物のように落ち着いた生への憧れは今もある。

診療所に摂食障害の方が来院されると、どんなにか辛いだろうと察する。

嗜好をコントロールできないのはアルコールや薬物依存と同じだが、食べ物はアルコールや薬物のように日常から絶つことができない。

私が植物に憧れるのは、コントロールできない摂食障害に陥るのを今も恐れているからだと思う。

摂食障害は、やっかいな病気である。

反対に、こうした症状があったから私は別の精神疾患にはならなかったと思って症状に感謝する気持ちもある。診療所で、人間関係に悩み様々な症状に苦しむ方々と対面すると、人は症状を選べないけれど、どの症状にも意味があると感じる。

だから私は、カラスではないけれど60点くらいの治り方で善しとして、あとの40点は摂食障害と折り合いをつけて生きていこうと思う。

真っ向から戦えるほど、摂食障害は生易しいものではない。

診療でこう話すと、患者さんの中には「それを聞いて、気が楽になった」と言ってくれる方もいる。気が楽になれば、症状以外に目を向ける余裕が出てくると私は考えている。