「いちばん辛いのは、やはり私が病気になって、手術に至ったことですよね。その頃に私、手術したあと、『もう10年しか生きられやんかな』と思ったのです。主人は理解がないし、どうなるのかなと。もうなにぶんにも、私の体調が悪い時がいちばん困りました。」
「(以前の病院の)主治医の女性の先生でしたけど、その時の言葉は、私もいまだに思い出されるのですが、もう本当に嬉しかった。『あなたは、発病以来、お母さんともずーっと一緒に歩いてきたんですよ』と言われて、先生がよく私の気持ちを分かってくださったというのが嬉しかった。
それと、私は会社の同僚に発病した時点で、こんなふうになってしまったわ、どうしたらいいやろうというふうなことを言っていましたので、友達が助けてくれたり、そっと夜覗きに来てくれたりしました。」
「本当に私、あの子が発病して、あと手術して、その後正式な平成18年からですね、作業所なり他のグループホームとかそういった事業所を転々と『来てほしい』というところに行っているのです。それがあって、今現在ですね、相談員として来てほしいと言われたのが、(平成)23年か22年か、それぐらいから関わらしてもらって。
その1年ぐらい前から、『三重てのひら』という代表も、なぜか……。この『てのひら』というのは、精神養成講座という(もので)勉強してもらったボランティアンさんが、今、10名ぐらい会員になって。で、常時来てくれているのは、5〜6人の会員さん、それが本当に頭の下がる思いで。私より年上の方ばかしなのです。最高で87歳の方がボランティアで来てくれていますし。そこへもって、通所しているメンバーさん、常時12〜13人のメンバーさんが、『井村さん元気でおって、長生きして、このサロンをいつまでも続けて。僕ら行くところないんや』というふうなことをしょっちゅう言ってくれますので、そういったメンバーさんが頼りにしてくれとり、私を必要としてくれとる、それがすごく私の励みになります。」
「私、会社へ勤めながら、休みとか時間があった時に、私が勤めた作業所へお手伝いに行っていたのです。
自分なりに、どこかそういったところがないかなというふうに思っていたのと、その前に援護寮のほうへ行った時ね、家族の方にすごく助けられて。私は誰にも自分の気持ちをひっそりと秘めていたのです、何も言わずに。そしたら、家族会の方が、かなり年配の方が、『あなた何か言うことあるの?1回出ておいで』と言われて。それから3か月ぐらいかかりました、出て行くのに。気持ちがすごく整理ができなくて。
ようやく出ていって、『今日は、ここで洗いざらい吐きだしてきな』と言われて、5人みえました家族会の方が。その中で私が本当に、今までのことを泣きながら話して、5人の方も泣いてくださって。それからスッキリして、何かこういったことがしたいという自分の気持ちが起こってきて、作業所へ時々手伝いに行っていたのです。
去年9月に(息子が)帰って来てから、すごく大きな声でどなったり、もう夜昼なしにそんなで、朝になると、『お母さん、行っといで』と。『ちゃんと留守番できるの?』と聞いたら、『昼のおにぎりだけ作っといてくれたら、留守番できる』と言うものですから、私は出て行くのです。すると、毎日のように帰りがけにメールが入るのです。『覚悟して帰ってこい、元気でおれへんぞ』と。それで家に入ってドアを開けるまでは、本当に怖かったです。二人で暮らしていますから。
そういうことをずっと続けてきて、『私はこうやって行き場があるのでいいわ』と、本当にその時はありがたかったですね。」