「息子が高校に入ると言うので(都会に)出てきたんですけども、1か月で(高校を)辞めちゃって、仕事も転々転々として…。で、近くの、ある店に募集が出ているから行ってみたらばと言うので、(息子が)働き出したんですけれども、『お前の離婚のおかげで俺がこんな辛い思いをする』と言って、包丁を持って暴れたので、(包丁を)取り返して…。
で、娘と2人で友達の家に逃げたんですけども、私の信仰している宗教の幹部の人が来て、私と娘を別々にして、私は、電車に乗ったり歩いたりして、朝方、電車から降りて改札口に出た時に、『そこにいろ。誰が来ても口を利くな』と言われたので、口を利かなかったんです。そして、明るくなったら、ほんとに、顔は知っているけども名前の知らない人達が来て、『どうしたの』と聞かれたんですけども答えなかったら、警察を呼んできて、で、車に乗せられて、連れて行かれたところが精神病院のC病院。病院に行ってすぐ腕に注射をされて、もう記憶が分からないという状態で、そのまま閉鎖病棟に入れられて、ソセイ(拘束)されていました。
その結果、閉鎖(病棟に)3年、開放(病棟に)4年という病院生活に至りました。」
「朝と昼と夜と寝る時の薬の4回ありました。それも(患者が一列に)並んで薬を口の中に入れるという方法でした。
テーブルがあって、病名(症状)の強い人によって並ぶ場所が違うんです。口を開けて(薬を)放り込まれるという感じ。それで前のテーブルの人は自分で薬を裂いて飲み、水を飲んで、『じゃあ、飲みますよ』と袋を返すという作業でした。
それで(薬を)飲ませた時には、飲んだら必ず飲んだか飲まないか、舌をベロベロさせて『確認しましたよ』ということをさせられていました。全部で7年半入院しているから、7年間、薬の時は必ずそうです。開放病棟は自分で薬を開けて飲むんですけども、飲んだか飲まないか、口を開けて『あーん』は続いていました。」
「はい。息子はたまに来ると、お花を買ってくれる息子でした。『なんか食べたいものがあったら連れていってあげる』と言って外に出してくれて、一緒に近くのおすし屋さんとかラーメン屋さんに寄ってご飯を食べて。で、今思い出したんですけども、自分の住んでいるアパートに連れていって、見たいテレビをかけて見せてくれたりして。でも、泊まるはずで行くんだけども、いつも夕方になると『帰ろう』と言って、いつもアパートから病院に帰っていました。
娘は、それどころじゃなかったんです。なぜなら中学を卒業すると同時に私が入院してしまったために1円もなかったから、働きながら学校に行っていたから、大変だったんです。夜間高校に通いながら、日中は病院のヘルパーさんみたいな仕事をしていたから、1か月に何回かしか休みがなくて、その休みを利用してたまに会いに来るんだけども、どういうわけか、(私の)姉とぶつかって、私が、姉が迎えに来て出ていったあとに娘が来て会えなかったとか、そういうことが多かったです。」
「宗教と、あとは看護師さんで良い看護師さんの時は、初めの頃は『ひとくちメモ』というのを書いていたのを、当直でいると、(その看護師に)見せてコメントをもらうのを楽しみにしていた。外に出られないから、窓から見た花とか風とか木々の歌とかをよくひとくちメモに書いていました。『今日は暑かったのにがんばって良かったね。』とか、『今日は寒くて大変だったね。』とか、『今日は何々をがんばりました。』という(看護師さんが)コメントを…。
そうしたらある時その看護師さんが、新しい看護師さんが来た時にそれを見せたら、『ここまで書くんだから俳句にしたら』と言われて、それから5・7・5で書くようになりました。でも、他の人達みたいにうまい俳句じゃなくて、ただ5・7・5に並べて、花とか空気とかを書くのが趣味かな。今も続けています。あのう(2011年)1月28日に書いたもので、姉に対する想いなんですけども、『姉の愛、感謝しきれず、涙する』。」
「精神科の病棟の中は、閉鎖病棟も開放病棟も、トイレにトイレットペーパーがないのがたいへんだった。行きたくてもいったん部屋に戻って、鍵を開けて、トイレットペーパーを持ってトイレに行かなきゃだめだったのが、一番たいへんでした。」
「役立ったことは、退院に向けての時に、担当の看護師さんから、家計簿を毎日つけて、私が、今日1日使ったものを書き出して、いくらいくら使って、いくらいくら残してというのを、お金を財布ごと持っていって、家計簿とそれが合うかちゃんとチェックしてもらって、終わったら看護師さんが帰るという作業を、退院に向けてして…。
あとは、(病院の)喫茶で働いたことかな。人と人との付き合い、なんて言うのかな、接し方とか…。喫茶店だったから。」