統合失調症と向き合う

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野村忠良さん
野村 忠良さん
(のむら・ただよし)
1943年(昭和18年)生まれの66歳。「家族会 東京つくし会」の理事として活躍。母親が統合失調症となり、少年期から苦悩の日々を送ってきた。30歳のときに父親と一緒に家族会に入り、それ以降、30数年にわたり家族会の活動に真摯に取り組んできた。現在も精神科医療の社会的な位置づけ、支援の広がりを目指す活動を行っている。
家族構成:父、母(病気体験者)、姉2人、妹1人
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32度目の入院治療
●母親の回復状況

「母はずっと受診はしなかったんですが、妹がどこかで知識を得てきたんでしょうかね。妹って三女ですね、私の妹。妹もかなり辛くていろんなことがあったんですが、母に詰め寄りましてね。『お母さんが入院してくれなければ私は自殺するわよ』って言ったんですね。そしたら母は『じゃあ、入院しましょ』と、言うことを聞いてくれたんですね。で、妹が探してきた病院に母は入院できたんですよ。それで、何か月でしょうかね。僕はその頃家から離れて、あの頃はちょうどお寺を出てお坊さんを辞めて流離いの人生をしていたんです、私は将来どうしようっということでね。そのときに妹が入院させてくれていて。母が再入院したのは母が50代のとき、50代半ば頃になりますかね。まだ(私が)20代半ば頃ですかね。

病院に入院したら非常に良くなりましてね。私も会ったんですね、家に帰ったときに。家にはほとんど帰らなかったんですが…。母が驚くように穏やかになってね。で、周りに協調的で、笑顔がよく出てねぇ、みんなに感謝があって、驚きましたね。これが母の姿だったのかなと。とにかく笑顔が多かったですね。1人で笑うようなことは一切ないし、寝ていることもあまりなかったように思いますね。家事はあまりできなかったかもしれないが、しかし家の中におかしいことをしないでちゃんといるということができてきたように思いますね。」

●病院の接し方

「そのとき(母の入院)は、キリスト教系の病院だったんですけれども、かなりキリスト教の考えが徹底しているみたいで、たぶん暖かい接し方をしてもらったのではないでしょうかねぇ。お医者さんと看護師さんにね。それが非常に母にとっては、安心できたという。で、ちゃんと指示に従うことができたというか、治療を受けているうちに心がだんだん昔の自分の、病気になる前の心に戻っていけたというふうに思うんですね。安らかな心にね。ですから、あれは精神療法とまではいかないけれども、そこの病院の雰囲気と言いますか、かなりお医者さんはじめ暖かくて、人権を大切にしてくれるような接し方をしてくださったと思いますね。」

●治療途中で退院

「母はかなり良くなったんですが、なぜ途中で退院させてしまったか。私も呼ばれたんです、主治医に。『退院させちゃだめだよ』ということを言われて。たまたま家に帰ったときにね。『これで退院したらまた悪くなるよ』と言われたにもかかわらず、退院させてしまったんですね。妹が、そのときに主導権をもっていましてね、家のことでは。父は、妹の言うことをよく聞いていまして。で、退院してやっぱり、すぐに悪くなっていきましたね。薬も飲まないし。で、二度と病院に行きたいと母は言わない。妹も入れたいと思わなかったみたいですね、どういうわけですかね。

今思うと、たぶん入院費がたいへんでね、家計の中で。私の家は、ずっと貧しかったですからね。父も大変でしたよ、子ども育てるの。父は、自分のことはなんにもお金を使いませんでしたね。タバコを吸うことと週刊朝日を読むぐらい。だからいっつもすり切れた背広で、ワイシャツなども親族にもらいに行って、そのワイシャツを自分のサイズに合わないのに着ていたり、靴も底がもう抜けてねえ、水が入ってくるようなものを履いていたし…。たぶん家計が厳しかったんでしょうね。入院費がたいへんだったと思います。それを医者に言わないでね、言えなくてというか、それで家にずっと置いておいたのかなと、今は私、そう思っていますけどね。」

●退院後の支援

「自分で勝手に退院してきたのが悪かったのですが、退院したらそれっきりでね、なんのつながりもなくなってしまって。結局、地域の中でまったく治療を受けない状況で置いておかれたと。そこに保健師も民生委員も何も関わらないという状況の中で、父が1人でしょって、親族からもまったく孤立して、地域社会からも孤立して置いておかれた。誰の支援もないという中でね。やっぱり医療機関は、そういう地域の患者さんを分かっていたら、その方が治療を受け続けているかどうかをチェックしていただきたかったと思いますね。そして、治療を中断していると思ったら、その医療機関が嫌だったら他の医療機関に変わってもいいからということを説明して、どこかにやっぱりつなげていただきたかった。どうしようもないときには、往診ということがあってもいいのではないかということも言いましたですね。何しろ精神保健福祉のサービスがあまりなかった時代ですからね、しかたがないと言ったらしかたがないんですが、できればそのようなことだけでもやっていただけていたら、私たちも非常に心強かったと思っていますね。

(情報が)なかったというか、情報がまったく届いていなかったという状況がありました。父も妹も相談に行ったようですけどね、あちらこちらに。妹は、かなりそういう面で積極性はあったんですが、妹も自分の心の問題を解決しなければいけないということを抱えていましたよね。母に甘えられないし。目に入ってくるのは、モデルになる女性ではなくて、むしろどう処理していいか分からない女性が家の中を占領しているわけですから、どう生きていったらいいか分からなかったでしょうね。将来の人生について悩んでいて、自分の人間性についても悩んでいて。だから妹も、少し自分が立ち直ったときに、どうしたらいいかということを本格的に考え始めたんでしょうね。父も相談相手になかなかならないと思って、自分できっとあちらこちらに探しに行ったのではないかと思いますね。」

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