「私は、高校まではほんとに自分は、自分で責めるんですけど、何にも父を手伝わないで自分の将来どうするかということばっかり考えていてね。だいたい小さい頃から頭の中ぼーっとしているわけね。心の中めっちゃくちゃだしね。だから勉強とか自分の教養とかいうことを積み上げていくという気持ちがまるでもてなかったんですよ。
でもこれではいけないと思って、真剣にそういうことを考え始めたのは高校時代ですよね。それからもう俄然、大学なんてどうでもよくてね、その当時は。どう生きたら良いかということの勉強も、最初からさかのぼってやり直ししようと思ってね、童話の本とか読み始めてね。それから、少年が読むような文学書とかいろんなものをどんどんどんどん読んでいってね。あるいは世界文学全集の本とか、あるいは宗教の本とか、哲学に関する本とか読んでいってね。そんなことばかりやっていましたね。とにかく自分のことで精一杯で、心の中で『お父さんごめん』と思いながら。父の炊事をしている姿を見ると自分を責めるわけですよね。でも父はそれを許してくれていましたね。無言で『いいよ』って。」
「で、高校卒業してから2年間浪人したときに、私は、『今日から僕が、夕方は全部炊事やるから。お父さんごめんなさい、これから僕がやります』って言ったら、喜んでくれてね。それから僕はアルバイトをしながら、自分の人生をこれからどうしようということを考えたかったんですね。『お父さん、しばらくそんな生活したいけどいいかな』と言ったら、父は『いい』って言ってくれたんですね、『好きにしていいよ』って。で、僕はあの当時、トルストイとかが大好きだったんですがね、そういった文学書を一生懸命読んでね。これから自分が誇りをもって、ほんとに品位をもって自分の生活をするにはどうしたらいいんだろうということを真剣に考えたんですよ。今までのように辛さに流されてね、そのときそのときを過ごしていく人生ではなくてね。
で、バイト代は全部父に渡してね。新聞配達、朝と夕方、両方やりましたよ。ちゃんとやりましたね、2年間。で、大学に入りたいなと思ったのは、1年半経った頃ね。それまではね、母親が私に東京大学に入れって言うんですね。立身出世主義で、明治の生まれですからね、母は。で、大蔵省(現在の財務省)に入れと言うんですよねえ。私はもう反感もちましてね、『ようし、絶対もう大学に行かないぞ』と。
ところがあるときからね、『いや、やっぱり学校の先生やりたいなあ』という気持ちが湧いてきたのね。それは自分を大事にしてくれた高等学校の先生達とか中学校の先生達のことを思い出しましてね。私を支えてくださったなあ、僕もああいう生き方も良いなってね、その頃、やっと思い出したんですよ。それから私は『よ〜し』と思ってね、小学校時代から勉強やり直そうと思って、小学校時代からの教科書を全部揃えまして、だあっと読み始めたんですね。で受験直前になって(模擬)試験受けたらね、75%の合格率だったんですね。国立(大学)しか行けませんよ、父はお金ないしね。わずかだけ小手試しに行ったら受かりそうだったんで(大学入学試験を)受けたら、受かったんですよねぇ。父が喜んでくれたんです。」
「(大学は)哲学科に入ったんですがね。哲学やればなんとかなるだろうと思ったら、ならなかったんですね、哲学はね。僕はこの勉強を一生懸命やって学者になってもあるいは学校の先生やっても救われないだろうということを痛切に感じて、むしろ一般教養で受けたインド哲学とか仏教とか中国哲学とか、そういうほうに私はすごい興味をもちましてね。それでたまたまその大学の学生座禅会というのがあって、座禅していたらね、これぞ私の要求していたことだと思ってしまったんですね。それで学生座禅会のほうにのめり込んでいって、学校は行かなくなってしまったんです、大学は。鎌倉の大きなお寺さんでしたけど、そこのお師家(しけ)さん、まあ、一番偉い方にね『僕は出家したいんだ』と言ったら、大学出てこなければだめだと言われてね。
大学5年ぐらいは在籍していたんですけどね、除籍になったんです。で、父が泣きましたね、私が大学を辞めると言ったときは。(父が)後始末も全部私の替わりにやってくれていたんですね。あとで気がついたんですけどね。で、知らなっかったんですが、父が私の国民年金をかけてくれていたんですね。そういう配慮を父はしてくれていまして…。今、私はかなりの年金をいただけているんですよ、食べていけるだけのね。で、私が仏教辞めて『やっぱりお父さん僕は社会で働くよ』といって家に行ったときには(父は)喜んでくれましてね。ほんとに喜んでくれましたね。最後の最後まで、私は父に対しては一生懸命協力しましたね。」
「私は、ほんとは職業に就かずにこのままいたのでは自分がだめになると思いましてね。自分にはなんの自信もないし、職業に就くだけの資格も何にももっていないと思っていました。なんの仕事に向いているかも分からないで、とにかく職探しをやったんですね。本が好きだったものですから、本を編集して出版する会社に勤めたいと思って、1つだけ受けたんですね。でも落ちてしまったんです。そして次に考えたことは、自分が本当に寂しかったからね、自分のように寂しい思いをしている子ども達の何か役に立ちたいなあなんていうことを、ほんとうは自分自身が寂しい男なのにね、考えましてね。で、社会福祉協議会の、まあ福祉の人材センターみたい(ところが)、その当時あったんですね。そこに行って正直にあるがままに、経歴をお話ししたら、『紹介してあげるよ』って言っていただきましてね。うれしかったですねぇ。『お年寄りと子どもとどっちがいいの』って言われて、それは子どもですって言ったら、『知的障害のところが空いていて、今募集があるけどいいか』って…。その施設がうちから近かったんで、お願いして面接に行きましたらね、すぐ採用されまして。それから16年9か月働きましたねえ、ずうっと。父も喜んでくれてね、そこだったら食いっぱぐれがないよ、なんて言ってくれて。
私は、その当時、最初は希望をもって入ったんですがね、『えーっ』と思いまして…。福祉の仕事ってこんなにひどい、ひどいということの意味は、人権とかね、それから1人1人の生活のあり様とか職員の意識とかね、ある部分は職員がとてもりっぱな考えをもっているんですけども、(子ども達)本人が自分の意思で自分の生活で決めるとかね、あるいは自分自身が自分の人生に責任をもつとかね、そういう観点から(職員は)接していかなきゃいけないのに、(子ども達は)全部指示命令に従って動かなきゃ行いけない、集団でね。で1人1人のことは全部置いてきぼりですよね。で、集団に従えないと無理をしてでも集団の中に引きずり込まれたり。あれはひどいなあと思いながらも、反面教師ですね。こういう施設は、やっぱり将来的には改革しなきゃいけないということを痛切に思いました。だから私は何十回『この職場を辞めたい』と思いましたね。でも変わろうとしたって資格はないしちゃんとした研修は受けてないし、変わりようがなかった訳ですね。だから他の仕事には就かないで、その仕事を続けていましたけどね。」
「児童指導員という資格が、高校卒で2年働くともらえていたんですね。で、児童指導員になったとしても私自身、非常に寂しい人間でしたし、自信はないしね。年長の知的障害がある方から、『野村さんしっかりしなさいよ』って肩をぽんってたたかれたことがあって…。これはどっちが職員だろうと思いながらいました、その職場に、正直な話。その感覚は今でもありますね。僕のほうがお世話になっている、僕のほうが助けをいただいているという気持ちは今でもあるんですよ。ずっとこの福祉の仕事をやってきましたけどね、30何年間ね。知的障害が16年9か月で、そのあと精神の障害の方の作業所で16年3か月働いたけども、僕は周りの方によって育てられている、周りの方に良かれと思うことを教えていただいてその方法でやっているという気持ちはずっとあるんですよ。まあ自分自身が極めて心の不安定な、そうであってはいけないんです職員はね、でもそういう職員で採用していただけたからこそ自分で分かったんですけども。僕は周りの方から教えていただく存在だと。教えていただいたことを実践して教えてくださった方々に返していく仕事なんだということをね、その当時自分は気がついたんですよね。だからそれはとてもうれしかった。
僕は、ほんとに自分の心が安定してくるのは50歳過ぎてからですね。それはなぜならば私の本当のいいところを発見してくださって、私を家族会の中でとか、それからこれはあるキリスト教関係でしたけども。キリスト教に僕、通ったんですね、自分が助かりたい一心でね。そのときに私の中にある本当に良いものを見い出してもらって、それを大事にしてくださった方がいらっしゃるんですね。そういう人たちがたくさんいらっしゃったんです。それはキリスト教のためにとかいうことではなくてね、私自身の心のありかたをとても高く評価していただけたんですね。『ああ、私はこれでいいんだ、自分の中にいいものがあったんだ、これを皆さまに役に立てていけばいいんだ』ということの確信をもてたんですよ。ようやく心が安定してきて、皆さまに少しずついろんなものを、少しは自信をもってね、お返ししていけるようになったということでしょうかね。」