「やっぱり一番大きいのは父の愛ですよね。父がいてくれたからこそ。でも、そうねえ、前から、父の中にもほんとの支えはなかったの、私はねえ、甘えられなかった。まあ、ほんとの意味でね『お父さん』なんて抱きついていったりはなかったように思いますね、なぜだか。だから甘えられるところがなかったんですよ、私は。でも、父がちゃんと支えて、真面目にね、これは大きな支えでしたね。なんかあったらお父さんがなんかしてくれると…。」
「あと学校の先生は大きな支えでしたね。僕は、小学校のときにはよくずる休みしながらも通っていて。(先生が)家に訪ねてきてくれたりね。だってあのときに僕は甘ったれだと思われていたんですね。母が精神科の病気ということは先生たちもうすうす知っていたと思うけども、それを学校では何も問題にならなかったし、取り上げてももらえなかったから。先生もしようがないと思ってね、手を出さなかったんでしょうね。でもマラソンの時間などに、僕の担当の先生がクラスの全員引きつれて僕の家までマラソンしながら来てくれてね、『野村くーん』なんて呼んでくれたんですね。クラスの一同で。びっくりしましてね。こんなにも大切に思ってもらえたんだって、うれしかったですねえ。あれは感動的だったなあ。」
「それから何人かの女の子達が、4人ぐらいかな、『野村くん』って遊びにきてくれたけど、僕は引きこもりで知らん顔して出なかったんだ、恥ずかしがって。あれは、今思うと心が痛みますね。せっかくきてくれたのにね、追い返しちゃった。
それから同級生の男の子がいて、今でもつきあっているんですけどね。その子のお母さんがとっても僕のことを可愛がってくれたのね。妹のこともおうちに呼んでくれたりして。遊びにいくとおいしいごちそう、おやつを出してくれてね。それで彼と僕とで仲よく遊んでいましたけどね。その友達の存在は大きかったですね。それでまったく孤独にならずにすんだ。
それからそういうお宅がもう1軒ありましたね。今でもその子とはつきあっている。3人で仲よくつきあっていた仲良しの男の子がいて、そのお宅にもよく遊びに行きましたね。そこでもやっぱりごちそうを出してくれたりね。健全な家庭ですよ、両方とも。ほんとにちゃんとしたりっぱな家庭ですね、両方とも。そこでもよくしてもらって、ばかにもされなかったし、むしろ可愛がられましたね。向こうに言わせれば『のんちゃんはえらいわね、一生懸命勉強して』なんて言われて。自分ではさぼってばかりいてね、引きこもりでしょう。なんでそんなこと言われるんだろうって思っていましたけど。向こうでも僕のいいところはちゃんと認めてくれていたみたいですね。
その前にも、もっと小さい頃には、やっぱり小学校の友達がいて、その子とは2、3年しかつきあいはなかった。その子の家にもよく遊びに行っていましたね。うちにもあげてくれてね。だからそういう学校の仲間たちが僕のことをいじめもしないで、大事に思っていてくれたということは、とても支えですね。小学校の頃ね。」
「中学になるとやっぱり先生も僕をよくしてくれましたね。とっても可愛がってくれた。で、家庭訪問をしてくれたけど、なにしろ家は居留守を使うんですよね。先生がきてくれてもね。心配してきてくれるんですよ、夜、灯りがともった頃ね。そうするとね、母は出ないの。玄関に鍵もかかっていて。灯りがついているんですよ、いるの分かっているじゃない? 僕たちも、『しー』っと言いながら隠れているわけ。で、先生、家の周りをぐるっと回る訳、外をね。で、帰っちゃう訳ね。
中学校で盤景(ばんけい)クラブというのがあったんですね。盤景(ばんけい)というのはお盆の上に土、粘度を載せてね、風景をつくるわけですよね。山とかね入り江の風景とか、砂をまいてね。その盤景(ばんけい)クラブになぜか母は入っていたんですねぇ。中学校で父兄を対象にやっていたのかな。で、その先生とときどき会っていたらしいんですねえ。僕にはまったく(その)いきさつが分からない。それから、小学校に戻るけど、PTAの役員を母がどこかで受けたみたいなんですね。役員なのに出てこないとかいう話をどこかで聞いてね。でも母は、そんなPTAを受けられるような状態じゃないのにどこでいつ、私の知らない間にPTAの会なんかに出たんだろうということがあるんですね。であるとき私が学校でちょっと友達にいたずらがきして授業中に紙でボールをつくって頭にこ〜んってぶつけたら、その子が先生のところにもっていちゃってね。『先生、野村くんがこんなもの頭にぶつけました』っていうんで、その先生が私に手紙を渡して。(それは)呼び出し状だったのね、母親に1回学校にきてほしいという。母に言ったけど、母はそんなのもう全然取り合わない訳ですね、学校にも行かない。そんな状況でしたけども、不思議と学校の先生方が私のことを心配くれましてね。今思うと、その先生、男の先生でしたけどね、私に頬ずりなんかしてくれてね、あるとき、だれもいないところでね。私のことほんとに心から心配していると伝えたかったんでしょうね。だから僕は、その先生大好きでしたけど、(私を)いつも大事に思ってくれていてね。だから僕のたいへんさは分かってくれたけども、どうしようもないということを、それをきっと他の先生たちに伝えてくれたと思いますよ、野村君のうちはこういう状況でこうなんだということを。だから学校の先生のある部分の人たちは分かってくれていた。」
「私自身が私自身をまったく当てにできない状況だったんです。頼りない、自信のない自分だったから。その自分自身が、ほんとに自分で頼りになる自信のある人間にならなきゃいけないんだというのが僕のテーマでしたよね。自立していく人間。それは自分が力がついてきたら、周りの方に何か役に立つことをさせてもらいたいという。
だから、最後の最後に自分に、お坊さんやったって言いましたけど、まったく無意味だったかというとそうではなくてね。僕は禅宗でしたから、禅宗の中には世界と自分という関係をとっても大事に考えているんですね、仏教の中でも。そのことは、僕はいろいろ分かってきた部分があるんですね。悟りを開いたなんていうと眉唾になっちゃうから言わないですけども、この世界というところは心から安心していられる場所なんだということをかなりの部分分かってきたの。まだ徹底的には分かっていなかったんですけどね。そういう面では、とっても僕には禅の思想というものはね、えらそうなこと言うんですけど、支えになりましたね。
その上、なおかつまだまだ自分が足りないものがあって、今度はキリスト教の団体に入ったりして、キリスト教の中で教わった、人間と神の関係、神ってなんだということをね。そういう考え方が僕にとって、ものすごく大きい。だから、今、僕は誰にもすがらないで、甘えないで生きるということは、たぶんそういう自分の中で、『あ、これはこれでいいんだ』という1つの落ち着いた部分、ところがあるからでしょうね。これで大丈夫、なんと言われようと大丈夫と。それは自分で点検してみて盲信でもなんでもない、それから丸飲みでもなんでもない、自分なりに考え考え考え考え尽くしてそういう結果になった。」
「それからもう1つ支えになっているのは、やっぱり家族会に入って、家族会の仲間達が私のことをとってもよくしてくださったことね。で、僕のことを、家族会で一生懸命仕事をやれるように助けてくれた。あと家族会で私を役員にしてくださって、今、使ってくださったことね。これはやっぱり相当私の大きい心の支えですね。とても大きいですよ。家族会で、『野村さん、私達こんなにたいへんなの、助けて』、『頑張ってね』って言ってくださっている。じゃあ私は自分の問題は一応終わったからできるだけやらせてくださいって…。私を認めてくださってね、『君だったら大丈夫、君だったら家族会の考えていることをそのまま社会に押し出していってもらえる人だと僕は信じているから、やってね』と言ってくださる人たち。僕はほんとうに有り難いと思っています。今でもとっても親しくしてくださってね。お家に招いたりしてくださる人。
それからもう1つは、やっぱりキリスト教等で知り合った方たちが、ほんとに私を受け入れてくださって、好意をもってくださったことね。私が、求道というか一生懸命に人間は何か自分を超えたものに目を向けて生きていかなきゃいけないという面でほんとにたくさんのことを教えてくださってね。その点では私のとっていた生き方、姿勢というものを心から、『野村君、それで良いよ』と言ってくれた、それはほんとに今でも有り難いですね。その支えが今、とても強い。」