「哲学があって。すべては無だ、色即是空(しきそくぜくう)という思想がありまして、勉強も意味ないし、名誉も金銭も権力もすべて無意味だと思いまして、あの時お坊さんになりたいと思ったのですけど、葬式仏教という感じなので、それはなんか違うと思ったのですね。で、『じゃ、自分で在家出家でいいや』と思って、それで山に籠ったのです。でも、親とか周りから見れば支離滅裂だし意味不明だし、統合失調症的な症状だと思われて。僕としては哲学のつもりだったのですけど。
もう一つ忘れていたのが、若さ(若気)の至りなのですけど、憲法であるのですけど、人間、労働の義務があるのですね。その時は知らなくて、労働しないで一生山に籠っていようと思ったのですね。それを知っていれば(山には)籠らなかったし、ちゃんと働いていたかもしれませんけど。でも結果としては同じで、結局ルートは変わってもたぶん入院していましたし、薬を飲んでいましたし、もう同じだったのではないかなあと、ね。」
「30代に入ってからで、それまで自殺未遂を繰り返していたのですね。首を吊ったりして……、まだ死にきれなくて、飛び降りようとしたり、電車に飛び込もうとしたり、洗面器の水に顔をつけたりしたのです。でも結局、幻聴が聞こえてきまして。その幻聴がこうだったのですね、いろんな方に伝えるのですけど、『完璧を求めて自殺するぐらいだったら、不完全なまま生きなさい』と言われて。それが、神様の声だと思ったのですね。直接頭に響く声で。
それともう一つ聞こえてきたのです。『お前はこんなことで死ぬのか』と言われて。そしたら、なんとなく死ぬ気が失せてきて、『こんなことで死ぬことはねぇやな』と思いまして、生きようと思ったのですね。でも生きるとやはり苦しいですけど、死んだところでどうなるかというと、無に還るだけなのですね。無に還ったとして何があるかというと何もなくなってしまうので、そうしたら、こう考えたのですね。『生きているから苦しいのも味わえる。生きているから不幸になれる、幸福になるため(だけ)が人生じゃない。じゃ、不幸になるのは意義があって、悲しむこと苦しむことには意義がある。じゃ、悲しいことを経験できるこの世にいよう。生きてよう』と思って、現在に至ります。
だから、人は不幸になると逆境に遭うと『もう死にたい』と言いますけど、でも、苦しめることを喜ぼうと思うのですね。生きていなければ苦しめないのだから、そこに意味があるのではないかなと思います。」
「命があるからですね。それだけです。それがすべての答えで、命がすべてだと思っているので、それだけで幸せと思っています。『生きないと生まれた意味がないからね』という川柳があるのですけど、生まれたから生きているわけであって、その命があればそれだけでいいと思っています。
例えば、何も蒔かなくたって、草は生えてくるし花も咲きますよね。だから人間何もなくても、幸せになれると信じて。お金がなくても、彼女がいなくても、仕事がなくても、いつか、いつの年にも花が咲くように、そんな幸せがあると思って信じて生きています。最後には寿命があるので、楽になれるので、楽になれる日まで自分なりに花を咲かせたいなぁと思って、生きてます。」
「当面はケースワーカーになるという夢があるので。大学に4年間通ったあとは、ケースワーカーの養成施設がありまして、そこに1年行って、そして試験がパスしたら、めでたく仕事という感じになるのです。
でも、今はまだ高校生なので、千里の道も一歩からですね。文系は得意なのですけれど理数系がまったくダメで、できるところは一般の方以上にできるのですけど、できないとろは小学生以下になってしまいまして、今、先生にしごかれています。」
「ないですねえ。唯一あるのは……、うーん、彼女がほしいぐらい。
いや、孤立しやすいのです、患者さんって。アパートに一人でいたりすると。でも患者さんって仕事をするのも下手ですけど、休むのも下手で。一人になりたいのに一人が苦手のところがありまして。それで彼女がいるとしてもべったりという感じではなくて、メールのやりとりとか、1週間に1度会うとか、そういう……。
相手の方も患者さんのほうがいいと思うのですよね。というのは、お互いに障害を持っていて、一緒に『辛い、辛い』と言いながら関わり合える。そういう点では恋愛というよりも、良好な人間関係を築ける、そういう橋渡し、一緒に綱を持つようなそういう相手がいたらいいなあと思います。そのための恋愛学というか、障害者のための。それが、孤立を防いだり、症状を軽減するのなら、それはきっと薬よりも効くのではないかなと思います。
患者さんの場合、デイケアでも施設でも病院でも絶対に恋愛は禁止なので、そうなると外に出るしかないのですけど、外に出ると健常者さんばかりなのです。だからハッキリ言ってきっかけはないし。孤独を好むのですね。人と付き合いたい、でも付き合いたくないという中で、関わりが難しくて。そうですね、一緒に戦う、戦友ですね。戦友がほしいのかもしれない。
いや、異性のほうがいいかなと。価値観が違うからこそ面白いということがあるので。通信(大学)だと意味がないので。福祉大学がありまして、そこに通おうと、今、思っています。重要なのは、福祉系の学校なので、そこにいる方もやはり病気の方の理解があるのはないかなあと。
ほんとに恋愛とか彼女という言葉ではなくて戦友ですね。一緒に戦って一緒に生きていける。それでケンカになったとしても、患者さんにとってはいい想い出だと思うのです。で、福祉も医療も家族も親戚も、『恋愛なんかやめろ』という感じなのですけれど。でも、なんて言うのかな、『失敗したらどうするんだ、症状悪くなったらどうするんだ』とか言うのですけど、でも症状が悪くなることも失敗することも必要だと思うのです。だから僕はケースワーカーさんになったら、今のケースワーカーさんは恋愛禁止なのですけど、どんどん恋愛させてあげたいと思うし、トラブルもいっぱい起こしてほしいと思って。
それは子育てと同じで、失敗したり不幸になって怪我をすることも必要だと思うのですね。患者さんを守ることだけが医療や福祉ではなくて、患者さんが傷つくことも医療や福祉の一種だと僕は思うのです。だから、僕もこれから傷ついていきたいし、ケースワーカーさんになったら患者さんも傷ついてほしい。そこを乗り越えていってほしいと思うのです。そこを、ちょっと乗り越えて壁を這いつくばって生きてほしい。それを防いだり、子育てと一緒なのですけど『だめだよ』というのは、それでは教育にならないし、幸せではないと思う。不幸になるからこそ幸せの景色が見えるということもあるのですね。」
「一つだけあるのですけれども。僕がまた『死にたい』と思っていたのですよね。でも、地域(生活支援)センターに来た患者さんが、私も死にたい、だけど、死んだところでなんもならないし、結婚もできないし、見えるものが見えなくなっちゃうよねと言われて。でもそれでも生きているのは辛いだけだし、死んだほうがましだって言ったのですね。でも、生きているっていいことじゃない、と。じゃ、何がいいの? それがいいじゃん、と言われて、そこになんかぱっと思うところがあって。いいから生きているんだ。じゃ、いいって何? 分かんない。分かんないって、じゃ、いいことじゃん、とそういう会話をして、分からないからこそいいんだと思って。じゃ、生きている価値あるよね、と二人で大爆笑して……。
でも、病気とか言いますけど、本当に、『宇宙人、いるさ僕らがそうだもの』という川柳があるのですけど、広大な宇宙に比べれば、ちっぽけなのですよ。その中で病気とか障害とか健康と言っているわけであって。3,000億以上が集まっている天の川銀河の中に僕らがいて、その周りに300個以上の銀河がある。その片田舎に僕ら地球人が住んでいるのですね。地球人というか宇宙人なのですけど。だからそんな3,000億以上の世界に比べたら、海の中にいるちっぽけなゴミ一つなのです僕なんて。だから、そんなちっぽけな存在だったら、まあ、生きていても構わないかと思いまして。なんて言うか、まあ、生きていれば誰にも迷惑を掛けないだろうし、その宇宙の中にいれば、死んだところで全然迷惑かけないし、だから『生きているかあ』と思いまして。
僕、運命……、運命って結構信じていて、合致したのかなあと思っているのですね。だから、そういう意味では運命だと思うと楽だし、なんか真理なのかなあとか思っていて。だから、病院に入院したのも運命だし、その時もなぜあんなことを言ったのだろうと思うけれど、そのことも運命だと思っていますし。目が悪くなったのも運命だし、幸せになるのも不幸になるのも運命だと思っているのですね。そしたら、もしすべてが運命なら、幸せに決まっていると思いまして。そうじゃなかったら生まれないですよ。じゃあ、幸せになるために生き抜きたいし、33(歳)ですけど、40(歳)になっても50(歳)になっても60(歳)になっても、運命とともに生きて幸せになりたいなと思っています。でも、意識的に考えることは一度もなくて、考えてしまうんですね。」
「無意識に思考が回ってしまいまして、開けたくないのに勝手に自動ドアが開く感じで……。薄々感じるのは、健常者と言われる方は考えたくても考えられなくて、私達障害者は考えがなくても考えてしまうという、そういう特徴があって。だから、健常者という方は意識しなければ真理を言えないけれど、私達障害者は意識しなくても無意識に真理を得てしまうという特徴があると思うのですね。
辛いのは、食事をしていても、寝ようとしても、リラックスしたくても考えてしまう、頭が回ってしまって。それが辛くて、食事に集中できない、なんか気がついたら食事が終わっていたり……。で、寝ようと思っても、勝手にくるくる回って、眠れない、もう一睡もできないまま過ごしてしまったりとか。
でも、真理を得たほうが幸せで、まったく食事に集中できないで終わっても、『これを悟れたじゃん』とか思えば幸せだし、一睡もできなくても、一晩寝なくても全然構わないし。でも、その一晩寝なくて、『人生ってこういうもんだな』と分かったら得だと思うのですね。
健康で、ただ寝れたり食事を楽しんだりして、何も得られないで、言葉はあれなのですけど、ただすべて満足して終わったら、サルと変わらないと思う。やはり人間たらしめるものは、哲学だし。私達の人生って、どう見ても不幸だし。だからゴッホのように、生きている時は売れない絵だとしても、キャンバス立てて自分の絵を描きたい。失敗作でも、死後に何十億という値が付くかもしれない、そんな絵が描けるのが私達精神障害者なのではないかなと思います。
でも、最後にこれだけいいですか? なんだろうな、でも、美しい人生だと思います、障害者って。なんて言うか、人生自体が美しいと思うので僕は、それを体現しているのが精神障害者なのではないのかなと思います。で、『アンナ・カレーニナ』というトルストイの戯曲があるのですけど、(そこ)にあるセリフなのですけど、意訳しますと、『幸せな人はみな同じ人生、不幸な人はひとりひとり違う』。で、そのひとりひとり違うのは、もしかしたら私達なのではないかなと思います。そっちのほうが意味があるのではないかと、なんとなぁく思います。」