「それからは、比較的安定していました。母も一人っ子だったんですね。母の実家は、母が若い時にお母さんが亡くなっていたので、母のお父さんは再婚されていたんです。で、後妻さんとちょっとごたごたしたんですが、母のために、母の父は後妻さんと離婚したんですよ。それで、母とお父さんとの生活になってからは、すごく安定して、通院もきちんとしていました。
再会してから、『あの時は楽しかったあ』と母が言っていました。『やっぱり親だなあ』と思うんですけどね。母のお父さんは、寄り添って暮らしてくれたんだろうと思います。」
「私の手助けをしてくれた方は何人もいるんですけど。一番大きいのは、やっぱりどうしても母とは会えなかったんですよ。で、研修医の時に、私、2回目の自殺未遂をしているんです。それは、いくら統合失調症を避けて通ろうとしても、研修医ですので、いろんな病院に行かなければいけないですね。で、民間の精神(科)病院で保護室収容の患者さんの電気ショック(電気けいれん療法)の係になったんです。それが、(母と)ちょうど同じぐらいの年配の女の患者さんで、もう嫌で嫌でね。
昔“デンパチ”と言ったんですけれども、患者さんも嫌がっているし。母が電気ショック(電気けいれん療法)されたかどうかはよく分かりません。でも、同じような保護室でしたし。自分がもうバラバラになりそうになってしまって…。で、やっぱりそういうことをやらかしてしまったので長期療養ですよ。もうだめだと、診療どころじゃないからと。
その時に、友達が(私を)じっと見ていたんです。その人にだけは話していたんです。主治医の教授には母のことを話さなかったんですよ。話せなかったというか。で、(友達が)『あなたの一番乗り越えなければいけないところは、そこじゃないの?』と。『いつも自信がないし、と言っている。一緒に行くから、お母さんに会いに行こう』と声をかけてくれたのが、最初の大きなステップでしたよね。
だから、母に会うことがなければ、おそらく(中村)ユキさんの漫画を読んでも、またパスだったと思うので、私は1つ1つ階段をのぼらせていただいたと思っています。」
電気けいれん療法:かつて電気ショック療法と呼ばれたこともある。薬の無い時代の暗いイメージがあるが、現在は、厳格な監視下で安全な方法で行われており、けいれんの起こらない方法(修正型電気けいれん療法)が主流である。うつ病、躁病、統合失調症の急性期などに有効である。
「10年ぶりでしたからねぇ。すごく怖くて。まず『どうなっているんだろうか』というのと、『怒っているんじゃないか』と思ったんですね。(母は)私が転勤するとすぐ探し出して電話をかけてきて、(それに対して)私、(電話を)ガチャですよ。そんなことをして歩いた娘ですから、今更というのと、怒っているんじゃないかというのと、母がもっと悪くなっていたらというのと、いろんな思いがあったんです。でも、友達が、私が一緒にいるからということで会いました。
そしたら、母は、すごく年を取っていましたけど、一番に『神様からの贈り物だ』と言ったんですね。それは、すごくうれしかったです。その時から母と病気について話すようになったんですね。
私が一番ショックだったのは、『お母さん、どうしてあんなに病院を嫌がったり、薬を嫌がったり、入院を嫌がったりしたの?』と(母に)聞いたんです。そしたら、母は私を産んですぐに結核になって、2年間隔離病棟にいた。で、(私を)産んだばっかりで、私に会いたくて会いたくて、でも、ダメと言われた、その記憶があって、二度と入院はしたくないと思ったと。それを聞いて、子どものことなんか顧みずに、勝手なことばっかりしている母だとずっと思っていたのにそんな気持ちがあったのかと分かり、すごく悪かったなと思いましたし、うれしかったです。可愛がられていたんだということが分かって。」
「医者として、精神科医として、母と非常に詰めて病気についての話をしたことはないです。『どんな調子だった?』と聞いたら、『ともかく声が聞こえてきて怖かったんだよ』というのと、『保護室が大変だった』ということぐらいで、やっぱり私も医者にはなれなかったですね。
薬も、非常に乱雑な飲み方をしていたんですけど、私が10年も母を見放していた時に10年診てくれた先生がおられるんですね。実家に帰ってから母は一度も医者を変えていませんので、その先生から、『娘さんが主治医ですね』と言われたんですけど、医者としていろんな症状を聞き出したりとかはあまりしなかったと思います。今思えば、『統合失調症って言われてどう思う?』と聞けたかなあとか、聞いておけばよかったなあとかは思いますけど、どう答えたんでしょうかね。」
「78歳です。だから、結構時間はあったんですよ。20年間ぐらい。ただ、その間5年間はアメリカのほうに家族で行っていたんですけども、子どもも生まれたら喜んだりして、そこはすごく良かったです。
ただやっぱり波があってね。やっぱりすごく攻撃的になって、具合が悪くなるとすごく怒るんですよね。私にだったらまだいいんですけど、主人に、非常に忙しい診察中も、バンバンバンバン『腹が立つ、腹が立つ』ということはやっぱりありました。波はありましたけれど、孫も見せに行けたりしたので…。
あのまま、会わずにいたら、私は非常に悲惨な状況だったし、もっと遠ざけて考えていて、もっと冷たい医療をしていたのかもしれないですね。」