統合失調症と向き合う

体験者の声 医療者・支援者の声 家族の声 私たちの活動紹介 イベント おしらせ
榎田伸也さん
榎田伸也さん
(えのきだ・しんや)
35歳、男性。22歳のときに発病し、2000年、26歳のときから2年間、入院を体験する。現在は2週間に1回通院。地域活動支援センター「ふらっと」を活用しながら、詩の創作他さまざまな活動に意欲的に取り組んでいる。両親、妹との4人家族。
movieImage
<<  1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  >>
2発症までの経緯
●幼児期〜高校

「小さい頃、2、3歳の頃は、やんちゃだったらしいんですが、忙しく動いている両親の姿を見ながら、6歳のときに、『もう自分は甘えられないんだ』とか、『自分が大人にならなければ』という強い思い、信念というのを打ち立ててしまったんですね。

で、小学校から中学、高校にかけて、とにかく非常に緊張する子どもでした。また、よくいじめにも遭っていました。理由は、先ほど述べたように、6歳のときに、『もう大人にならなければ』という思い込みを持ってしまっていたんです。で、周りの子供たちは、そのときどきをまさに子どもらしく生きていたんですけども、そういう子どもらしさを無意識的に捨ててしまった自分は、周りから見ると、浮いた存在に見えたんでしょう。『あいつ生意気じゃ』とか、『かっこつけやがって』というふうな理由で、いじめられていた。ただ、その当時は、なんで僕がいじめられたのかという理由はわからなかったんですね。

高校の頃も、いじめに遭っていたんですけど…。ま、いじめとは直接関係はなかったんですが、クラブ活動ですとか、進学校だったもので、勉強になかなかついていけない劣等感などから、高校2年生の1学期間、学校に行けない時期もありました。」

●大学入学〜卒業

「そうこうしているうちに大学受験が迫ってきて…。最初、受験したい大学は決まっていたんですけど、指定校推薦と言いまして、3年に1回ぐらいのペースで、この大学のこの学部のこの学科、というような感じで、回ってくる。それがたまたま東京のほうの大学だったので、ただ単純に東京に出たいなという思いから、決まっていた大学(受験)をやめて、そっち(東京の大学)に行くことにしたんです。

翌年18歳のときに、初めて親元から離れて、東京で1人暮らしを始めたんですね。ただ、指定校推薦という枠で入ったものですから、後輩への道を断ってはならないという強い使命感もあったんです。ですから、講義も、他の人の1.5倍ぐらいは取ったような気がします。で、アルバイトも4年間ぶっ通しで続けましたし、サークルも、今思えば全力投球、まさに馬車馬のような日々を送っていました。で、その反動からか、ふと気が緩むと、コンビニで甘いお菓子とかをたくさん買い込んで、アパートに帰ってやけ食い、ま、固い言葉で言うと過食傾向に陥っていました。私の場合は、吐きはしなかったんですけれども、そういう過食にあう度に、必ず深い虚脱感に襲われていました。

その頃から神経過敏にもなっていて、私が住んでいたアパートは4畳半で、隣の部屋の物音がちょっと聞こえるんですけど、普通の人の感覚だと、隣の物音がうるさいから文句を言うという感じでしょうけど、私の場合は、自分の物音を隣の人に出してはいけないという強い思いに駆られてしまったんですね。ですから、すごく息が詰まるような生活になってしまって。結局、そのアパートを引き払って、もうちょっと頑丈なアパートに引っ越したんです。

そうこうしているうちに、今度は就職活動が迫ってきた。ほんと自分としては、今思えば、非常に見通しが甘かったんでしょうね。公務員試験を受けたんですね。その当時でも倍率が高くてね、2回受けて2回とも落ちてしまった。で、当時並行して受けていた就職活動で、一般企業に内定が決まったので、公務員は難しいからあきらめようという理由で、会社の入社式の間まで、単発のアルバイトをすることにしたんですね。」

●アルバイト時

「大学を卒業した年(1996年)のことだったんですけど。あるスーパーのアルバイト、これは、その年の11月の頃でしたが、些細なことで上司に叱られた。それがきっかけで、とても激しい怒りの感情に襲われたんですね。で、その怒りというのは尋常ではなくて、家族の誰が説得しても、まったく収まりがつかないほど激しいものでした。結局、そのアルバイトをやめて、実家に帰って、治療に入ったということです。」

●22歳:実家に戻る

「発病したのは22歳のときです。実家に帰ってまず行ったことは、幼い頃のアルバムを母親と一緒に何回も何回も見たことです。写真というのは不思議なもので、そのときの情景が、写真を見た瞬間にパッと甦(よみがえ)るんですね。このときはどんな気持ちだったか、どういう生活環境だったか、どういうしんどい思いがあったかということが瞬時に甦る(よみがえる)。母親と話をしながら、このときはああだったこうだったという話をしながら、何回もアルバムを見たんですね。

あと、たまたま母親が日記をつけていたものですから、生まれたときから22、23歳ぐらいまでの足跡(そくせき)をレポート用紙に書き出した。振り返りながら、こんときはこういうことがあったということを追想したんですね。」

●いろいろなところを渡り歩く

「それから、ありとあらゆるカウンセリングですとか、医療機関ですとか、民間療法も、いろんなところを渡り歩いたんですけども、これといって目に見えた回復はありませんでした。で、今振り返って思うのは、当時は自分自身にまったく聞く耳がなかったんですね。気持ちにもゆとりがなくて、カウンセラーの人たちが良いことを言っていたとしても、右から左へそのまますり抜けていってしまっていた。それぐらい、気持ちにゆとりがなかったんですね。

発症した次の年に、家族のいろんな事情があって、引っ越しました。それ以降も、いろんなカウンセリング、医療機関、民間療法を渡り歩くんですけど、回復はなかったですね。むしろ、怒りの感情というのがますますエスカレートしていったんですね。で、家族もいろんなことを私に言ってくれたはずなんですが、まったく聞くゆとりがなくて、なんて言うのかな、どんどんどんどん荒れていく一方でした。」

●病気に関する情報について

「悪い言い方をしたら、ドクターショッピングとでも言うんですかね、いろんなところを回ったものですから、診断名というのは聞いてないんですよね。少なくとも聞いたのは、神経症的な範疇だとか、それぐらいですね。精神分裂病だって直接言われたことはなかったですね、入院するときまで。

とにかく私は、正確な病名を知りたかったんですよ。で、どうすれば治るのか、どういう薬を飲めばいいのか、そういうことを知りたかったのに、まあ、10数年前のことですから、今ほど精神保健福祉の分野が発達していなかったんですね。だから情報を得るツールがなかった。だから非常に右往左往する日々でしたね。」

●幼少時から自家中毒の繰り返し

「幼い頃は自家中毒という病名がついていたんですけども。これは何かというと、学校で強い緊張感、あとストレスを溜めこんでそれが緩んだときに、家で嘔吐してしまう、そういう症状をしばしば繰り返していて、近所のかかりつけのお医者さんに、よくかかっていました。ただ、統合失調症を発症するまでは、けがや病気などで、入院したことはありません。

主にひどかったのは、やっぱり小・中学校ぐらいまで。でも、たまにやりますね、5年か10年に一辺ぐらい。そういうときは、たいてい緊張感が溜まっている、あと体が相当疲れている、心も参っている、そういう悪条件が重なって、ゲーゲー吐いてしまう。最近もあったんですけどね、6月の初め頃。吐いたときに、何にも食べられなくなると薬も飲めないんですよ。薬が飲めないので、症状が出たんですね、久しぶりに。『周りの人が悪口を言っている』、そんな感覚に襲われて。で、薬を飲んだらすぐ治まったんですけど、やっぱり薬をちょっとでも抜くとそうなるんだなあということを実感しました。」

<<  1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  >>