「高校は、2年の2学期から、また通ったのですけども、ちょっと勉強がついていけなくて。それで、結局2年(生を)もう1回ダブってやったのです。それでもやはりちょっとついていけなかったので、中退して……。
そのあと、“大学入学資格検定”を、今“高校卒業検定”と言うらしいですけど、それは受かったのですね。それで大学を目指して勉強していたのですけど、一浪しまして。
で、一浪している、秋かな、12月かに親父が突然脳内出血で亡くなりまして。それで、大学はあきらめましたね。それからはアルバイトを、まああの頃、いわゆるバブル沸騰の頃だったので、アルバイトをしていても、まあ普通に生活できる。父の財産もありましたし、なんとかやっていましたね。(アルバイトは)いろんなことをしました、はっきり言って。」
「アルバイトをずっとしていたのですけども、26歳の時に、レコードレンタルの会社に入ったのですけど、いわゆるブラック企業で。いくら残業しても残業手当はつかないし、正社員になったら、社長が大の酒好きで、部下を連れて飲みに行く。20、30人連れての飲み会があって。
最初断っていたのですけど、まあ根は酒が好きなもので、ビールで一気飲みをやってしまって。そのあと、女性のつくようなクラブに連れていかれて、ウイスキーの水割り2杯か3杯飲んで、それでカラオケ歌ったりして。で、その日帰ってきたら、もう、一睡もできなくて。で、次の外来の日に行ったら『入院しましょう』と主治医に言われて、また入院する羽目になったのですね。
レコードレンタルの会社のこともとても続けられなくて、辞めて。辞めてというか、それの時は、お金ももう無かったので生活保護になって、家族全体で。その頃は一緒に住んでいましたから、妹とかおふくろとかと。だから、3人で生活保護になったのですよね。」
「仕事とかアルバイトではないかもしれないですけど、作業所ですね。レストランがあって、精神障がい者の人がやっているのですけど、そこは10年勤められたのですけどね。
(そこでは)いろんなことをやりましたよ。料理を作るのもやったし、お菓子も焼いたし。接客だけはやれませんでしたね。あと、ふきんの煮沸消毒とか、鍋洗い、皿洗い、サラダを作ったり、いろんなことをやりました。トイレの掃除もしたし。
それから、開店準備といって、窓を拭いたりシャッターを開けたり、テーブルの上を拭いたり、そういうこともやりましたし。普通のレストランと同じような仕事をやって、それは10年続いたのですけど、その10年続いていた時にM病院に入院してしまって。それで一度仕事から離れたので、それからもうできなくなりましたね。
(それは)だいたい40(歳)くらいから50(歳)くらいですかね。近くの飲み屋で、モスクワオリンピックの女子マラソンを最後まで見てしまったのですよね、ずっと11時半頃まで。それから調子がおかしくなってしまって、(M病院に)入院したのですよね。」