「(最初の受診から)間もなく、何か月も経っていないと思います。でもその時は長く入院しなかったのですよ。1か月もいなかったと思います。いや、『もう大丈夫じゃない、それほど重くない』みたいに思われていたみたいで。たぶん(薬を)溜めて飲んだぐらいだと思っていて。
そうですね。そのあとやはり自分を責めて、『なんであんなことしてしまったんだろう』と引きこもりみたいになって。で、薬、もらっていた眠薬を一気に飲んで、朦朧として、救急車で、その精神科の病院に運ばれて。気がついたら、大広間というかな、大部屋の畳の上に布団を敷いて寝ていたというか。それが初めて精神科に入院したのですね。
もう、生きるのが嫌になったというか、もう死ぬことばかり考えていた、あの頃は。20代・30代はそうでした。その他にも、カレーに猫いらずを混ぜて食べたら、皮がカサカサになった。その時は、普通の一般の病院に入院したのですけど。」
「5〜6回ありますね。睡眠薬を溜めて飲んだあと、家からあまり出なくなったから。その当時、その先生は大きな病院に転勤していて、『一生のうちの半年ぐらいはね、大したことないから、入院して、気分転換すれば』と言うので、半年という約束で入院したのです。それが良かったのか、入院して退院したあと、作業所に通ってみたりして良かったのですけど。そのあとまた、良くなると社会復帰したくなってきて、社会復帰したのですが、そこでまた再発というか重くなったというか……。
警備会社。警備会社というか、デパートというか、その中の警備だから。スーパーですね。だからあの時は不規則勤務で、遅い時は従業員が帰ったあとに通用口を閉めて、翌朝、従業員が出てくる前に通用口を開けるということだから、夜遅くて朝早いという勤務もあったのですね。それで、ずっと一人。欠員が出ていたから、週休1日しかなかったのですよ。
再発して重くなって、それでまた入院して。同じ病院。でも、先生は、その時は変わっていましたけど。
(入院は)半年はいなかったと思うけど、4か月ぐらいはしたと思うのですけど。警備会社に勤めている時に、やはり状態が悪くなっていたのか、家で親父とケンカになったのですよ。で、親父が、『殺す』とかなんとか言っていたから、俺はもうおかしくなっていて、警察に電話して『来てください』と言って、警察を呼んだのですよね。この次に、診察した時に先生から入院したほうがいいと言われて入院したというか……。その後、4か月ぐらい入院したあと、退院したけど家には寄せられないと言うので、その病院の近くの援護寮に入ったのです。
援護寮は2年までいられたのですけど、2年もいなくて、隣の福祉ホームにまた入って。福祉ホームも2年いられるけど、2年もいなくてアパートに。その新しい病院の近くに10年ぐらい住んでいたというか、援護寮、福祉ホーム、アパートというか。だから家からは10年ぐらい離れていたのです。
親父が、自分で死んでしまった。母親と、なにかもめごとがあって、母親が家を飛び出たのですよ。で、母親が俺のアパートの近くにアパートを借りて、もう親父とは離婚するというか会わないと言うので。そうしたら、親父は、結構、ああいう性格だから、逆にあれなんで、死んでしまって……。
で、どうするかというけど、ばあちゃんが介護が必要だというので、母親は、家を出るつもりだったけど、親父の母親だけど、介護するのに実家に帰って、なんだかんだしながらも、俺も実家に帰ったというか。」
「(東日本大)震災の前だから、2010年の6月から10月まで。それはその時の先生が、糖尿で……、精神科だったのですけど、そこで定期的に検査していたのですよ、血液検査。そしたら血液検査の結果が、すごく悪くて。『これは運動療法と、強制的にしなきゃいけない』というので、入院して。食事療法、運動療法、精神科だけど、それで入院した。でもその時に主治医の先生が途中で亡くなったりして、また大変だったのです。若かったのですけど、まだ50代ぐらいの先生だったのですけど、持病があったから。透析受けていたのです。
次の先生もまた途中で具合が悪くなって。次の先生でやっと退院できたというか。で、その先生が、今度は系列の地元の病院に来るのに紹介状を書いてくれて、同じ系列だけど、その病院に来て、そこで初めてデイケアに通うようになった。その時は新しくなって、その古かった地元の病院も。初めて(デイケアに)行ったですね。」