「生活臨床の精神神経学会(誌に)、第一報が1966年、第二報が67年に出たのですが、67年の中に結婚問題とか家族問題、それから病前性格の問題をこれから取り上げてやるんだという予告がしてあったので、そのひとつのテーマなのです。当時、日本でも海外でもずっと病気の原因としての家族に関心があって、生活臨床は例のクレペリンモデル、『(統合失調症は)内因性の病気で、再発を繰り返して荒廃状態に至る』という伝統的な考えではなくて、普通の人間として見られるのではないか。生活を見て、生活を支えていこうという視点がありましたから、そういう視点から見ると家族をどう見られるのかということは当然関心があって、家族問題をやろうということだったのです。
生活臨床の指導者の江熊要一(えぐま よういち)先生、49歳で亡くなられたのですけど、その先生から、『伊勢田くん、博士論文として家族問題をやってくれないか。君でしかできない仕事だから』というふうに言われたのです。生活臨床もそうそうたる大先輩、いっぱい優秀な先輩がいて、私など本当に正直、自分の役割はないと思っていたのです。
家族問題を研究するチームがあるわけではなくて、生活臨床のチームがあって活発にやっていましたけれど、家族問題をやるのは私しかいませんでしたので、気持ちとしては、太平洋の海原にポンと投げ出された、そういう気持ちになりましたね。」
生活臨床:群馬大学精神科の江熊要一氏が指導し、仲間とともに作りあげてきた統合失調症に対する先駆的診断と治療体系。生活を見て診断し、生活の手当によって治療することを目指した。
クレペリン:エミール・クレペリン。ドイツの精神科医。1899年、精神病を早発性痴呆と躁鬱病に分類した。早発性痴呆は、のちの統合失調症(schizophrenia)に至る。
「(託されたのは)僕が医者になって3〜4年の頃ですかね。それで、一応調べましたよ、海外の論文とか日本の動向とか。評価表で客観的に家族を捉えるために、客観的な基準を作っているのです。家族の健康度とか病理とかを評価して、それを治療していこうという。家族を見るのにそういう客観的な評価基準から評価するやり方と、それから家族を観察する。患者さんが訴える家族、そこからは、『こんな家族に育てられたんじゃ、当然、統合失調症になってもいい』というような事例研究ですね。それから科学的なアプローチとしては、そういう基準も作って家族を治療していこうという家族療法、そういうものが中心だったのです。
私にはそういう難しいことをやれる能力も経験もなかったので、生活臨床の伝統でいこうと思いましたね。とにかく(直接家族から)話を聞いて、患者さんから聞いた家族(の見方)は参考にはしますけど、家族の人の訴えを先入観なしでずっと聞いていく。なんて言いますか、素朴な家族の訴えを聞いて、生活(行動)を聞いて、そして、どうしたらいいかを考えていくという手法を採りました。
そうしたら、相当変わり者に見えた親が、その育ちを聞いたら、当然こうなるなということがよく見えてきたのです。『いやあ、こんな生活の中でよくここまできた』と、すごく感動する。その人の人生を聞かしていただいた上で、そういう状況になった家族というのがよく分かりましたね。
例えば、統合失調症の(方の)お母さんでニコニコはしているのですけど、自分のこと、子どものことについても何も言わないのですよ。自分の考えを言わないし。患者さんと(その)お姉さんも、『うちの母親は、動物のように生きた人です』と言うのです。ただ産んで育てただけというふうに見える。知的障害とかなんかそういうものがあるのではないかというふうに見えたお母さんですよ。
『お嬢さんのこれからの治療方針を考えるのに参考にしたいので、お母さんが今までお育ちになってきた苦労話でも自慢話でもいいので、聞かしていただけますか?』とポンと投げかけたら、今までの無反応が全然なくなって、自分のお育ちになったことを涙ながらに聞かしてくれたのです。聞くも涙の話ですね。
お母さんのお父さん(患者さんの祖父)のお兄さんが家の跡継ぎだったのだけど、亡くなってしまったのですね。そしたらお父さんが、その兄嫁さんと再婚してしまって、家を出て行ってしまうのです。そしたら、お母さんのお母さん(患者さんの祖母)も腹が立って、自分も家を出て他の人と結婚した。だから子ども・二人の娘が放り出されて、別々に養子に出された。で、(患者さんの)お母さんは、養子先で、(養父母に)子どもができちゃったんですね。子どもがいない家に養子として出されたのだけど子どもができたら、差別された。
貧しい人と早々に結婚したのだけど、今度は、貧しくても自分の家があって、出て行けとか、いつ家が崩壊していくか分からないという不安がなくなって、もう幸せになってしまって、何も考えないで、患者さんと(その)お姉さんが言うように動物のように生きた。そういうことがその人の歴史を聞いてくると、そうなる訳があるのですね。
患者さんも統合失調症になったと思えるような理由があるかもしれないのだけど、親にもそういう理由があるのです。治療者で、親の無理解、治療に対する無理解、親はちっとも病院にも来ないし、親の無理解ということを、我々、よく言うのです。私は、我々のほうが家族に対する無理解(がある)と、本当に痛感しますね。私はそういう仕事を向けられたというのはすごく感謝しているのですけど、これが博士論文になるかどうか、いつもずっと不安でしたけど、プロセスはすごく楽しくてね。いっぱい勉強させていただきました。
それで、現在の状態を把握するのもいいのだけど、そこに至る歴史的な経過があるので、その歴史的な経過を踏まえた上での支援方法、患者さんや家族にとっての生き方ですね、生き方を一緒に考える段階になったと自負していますね。そのあと、家族研究のチームができました。私の孤独なあれ(研究)ではなくて、いろいろな成功例ができて、東京でも同じように成功例が出てきました。家族研究(を)、私はそういうふうな始まりでやったのですけど、統合失調症の(患者さん)を支える、そして家族を支える、そういう道が開けたのではないかなと思っております。」