「親元にしばらくいたのですが、退院の時にもらった薬がなくなったあとは、『退院したのだから、もう薬を飲まなくてもいいだろう』と思って、まったく飲みませんでした。それで、なんとかして働こうと思って、働くところを探すために札幌に行って、求職中に幻聴や妄想状態になって、街の中にいる時に警官の職務質問を受けて、そこに救急車が呼ばれて、Hという精神病院だったのが今は総合病院になっているそうですが、そこに運ばれて3年間いて、退院しました。そこまでで、1つ目の病院と2つ目の病院での入院期間が6年と6か月。
(退院は)26歳。それから45(歳)までの20年間は町の中にいて、親元は、数か月で離れてずっと埼玉県の今住んでいる町で療養してきて、45(歳)までの20年間は、薬は一錠も飲んでいません。で、症状は、ほんとにものすごく悪かったですけど、(薬を飲まなかった)理由は、1つ目の病院が、あとから考えると当時としては、ずいぶん良質だったんだよね。看護師の質なども非常に良かったということが、何十年もしてから分かるんですけれども、2つ目の病院は、僕にとって一生涯忘れられない、“地獄の地獄のさらに中心の地獄”としか言いようのない処遇を受けましたので、精神医療と精神病院に100%拒否感が湧いたことが、どんなに状態は悪くても薬も飲まなかったし病院にも行かなかった理由なんです。だからまったく働くことなどできません。」
「親の援助を受けることのできない状態だったもので…。いろんな理由がありましてね。で、上京してほんの少しして、アルバイトのようなことを、ちょっとやってまた休んで。まもなく生活保護になって、ずっと生活保護でやっています。
住んだところは、4軒先に小さなお店があったんですが、お店に行っても、お店の親父さんか奥さんかどちらかがやっているお店に入って行ってなんとか最低限のものを買って帰ることができたんですけど、周りに人がいると(店に)入れないんですよ。見張っている、つけ狙われているというような感情があって、どうしても部屋から出ることができない。だから、水道の水に塩を入れて飢えをしのぐとか、風呂にも行かないから、流しの栓にボロ切れを詰めて水を溜めて、その中にしゃがんで体をこするとか、そんなふうにして過ごしていましたね。」
「1回だけ、死のうと思って一番遠方に行ったのは、東尋坊(福井県の海岸にある岩壁)に行ったことですよ。どうやって東尋坊に行って、今住んでいるところに帰って来たのか。列車なのか。考えるたびに、お金がなかったから列車に乗ったんじゃないとは思うんだけれどとも思ったり…。丹沢に行った時は、まったくの真っ暗闇(の中を)降りてきて、道端にたたずんでいた時にトラックが来て、手を上げたらトラックの運転手が、今住んでいる町まで送ってあげると言って送ってくださったことがあって、そのことだけは間違いなく鮮明に覚えているんですけど。東尋坊に行った時は、どうやって帰ってきたのかはっきりしたことは覚えていないんです。
いやあ、東尋坊で、どこから飛び込んだか分かりませんけど、船でどこかに引き上げられたということは覚えていますね。そこだけは。
僕は、東尋坊に2〜3日いたと思うんです。あそこは見張りがいてダメなんですよね。夜になって、崖のどこかから飛び込んだんだと思うんですけど。」