「はっきりは分かりませんけれども、今と違いましてね、僕、言葉を話すことができる人間ではなかったんですよ。なんて言うか、家族とか、それから、小学校なんかの場合、毎日1人ずつ、あいうえお順に全部名前を呼ぶわけですよ。で、返事をすると担任がひと言なにか言って、次の人間の名前呼ばれるんですけど、僕にはそれがものすごく耐えられないことで、返事もなにもしないで黙っているわけです。毎日同じなわけですから。話すことができないというのは、今と心境がまったく、ありとあらゆる面で異質。生物体としては連続しているから同じ人間なんですけど、精神的には完全に別人と言ってもいいぐらい違う人間でした、今とは。
で、45(歳)の時に、理由はまったく分かりませんけど、周りの人と話せるようになって症状が消えたんですね。
なんて言うか、ほんの少しだけアルバイトに毛が生えたようなことをほんの少しだけやったり休んだり。だから、生活保護は、僕、はっきりしたことは分かりませんけど、2回か3回返上しているんですね。今は(生活)保護です。
アルバイトだって、ほんの数日とかね。だからよほど調子の良い時は、僕、新聞を読みましたから。だから、非常になんて言うか、塩水を飲んで飢えをしのいだという生活もありましたので、ものすごい粗食で生き延びることができましたので、少しだけお金が溜まるわけですよ。だから、社会的な活動につながろうと思って、自分で関心がある団体に加入してカンパをしたり、そういうことで社会とつながろうということを少しだけやっていきましたね。」
「どうして僕そういうこと(生活保護)を知ったのか、はっきりしたことは分からないんですけど、一番最初、市会議員のところに僕、相談に行ったんですよ。今はもう議員ではありませんがね。その人のところに相談に行ったら、明日、市役所のこういうところに何時においでなさいと言って、『なぜ市役所かな』と思って行ったら、そこで(生活)保護になったんですね。その時まで生活保護のことは、僕まったく知りませんでしたよ。
だから、45(歳)よりもっと若い時から(生活)保護だったと思いますけれども、なんて言うか、非常に後ろめたかったですね。」
「というのは、どうしてかははっきり分かりませんけど、生活保護というのは国家予算というか国税から支出されているということがいつの間にか分かるようになって。18歳で発病しましたから、僕、自活するという意味でも、勤めるという意味でも社会人になったことが1日もないわけですよ。だから、ものすごく後ろめたくて…。
だから、下宿で、睡眠薬のブロバリン(ブロモバレリル尿素)という薬、ほんの数錠だと買うことができたんですよね。今はどうか分かりませんけど(注:現在は市販されていません)。それで、何十錠も溜まった時に、それを飲んで死のうと思って、一番最初の時は30〜40錠ぐらいだったと思いますけど、だんだんだんだん錠数が増えていって。でも全部失敗しましたので、この部屋ではだめなので、決心が100%本物じゃないというふうに思うようになったのが、東尋坊に出かけた決定的な理由だったんですけど。
(自殺未遂は)45歳以降もありますね。だから今まで全部で東尋坊もひっくるめて、10回以上はブロバリンばかり飲んでいます。」