「2005年の9月に告知をされて、それで抗がん剤治療を受けて、そのあと経過は順調だったのですね。ところが年を開けて、5月ぐらいにいきなり彼女が歩けなくなって、しびれがきたのです。そのことを病院に連絡すると『すぐに救急車でいらっしゃい』ということで、即入院となりました。
それはがんの転移性の脊椎腫瘍ができていて、圧迫骨折を起こしていたのですね。ですからその時はすぐに放射線を当てて、術後も放射線を受けていました。
手術の後はリハビリを集中的にやりました。そのお陰でわれわれは当初、本当に下半身麻痺で歩けなくなるのではないかとたいへん心配したのですが、妹は歩いて帰ってきたのです。その時は皆本当に嬉しかったですね。」
「早い段階から、心理療法を家族全員で受けていました。がん患者さん向けの心理療法でサイモントン療法というのがありまして、要するになるべくストレスのない生活を送れるように、そうすれば免疫力も上がるし、健康な状態が長く続くと、そういう観点からストレスを取ってくれる療法です。
がんを告知されると当然皆さんストレスがありますから、その辺が安らかになるというのか、心配しなくてもいいようにその治療を受けられたということが、妹のためにもよかったし、第二の患者と言われる家族のためにもよかったのかなと思います。」
「私のほうはアメリカの大学のほうに連絡をとって、なんとか(日本では)未承認の抗がん剤を使えないかという交渉をしていました。しかし、受け皿がないのです。(向こうも)お薬を送ってあげることはできるけれど、それをだれが使ってくれるのか、と。そうしたらC病院にロサンゼルスから来ている医師がいて、その方が受け皿になってくださるという話になりました。B病院の先生も賛成で、『推薦するからそこへ行かれたらどうですか。それもなるべく早いうちに行ったほうがいいですよ』というお話でした。妹とも『4月になったら桜が見られるね、一緒にお花見行こうね』という話をしていたのですね。それでちょうどいい機会なので、救急車を呼んで千鳥が淵でお花見をしながらその病院へ行こうということで、B病院を退院しました。退院するときに、病棟の先生と看護婦の方たちが学校の終了式のような式をやってくださいました。全員手をふってくださり非常に感動的なシーンで、本当に皆さんよくしてくださいました。家族一同でお礼をして、それから救急車に乗ってお花見をしながらC病院へ行きました。それが何と言うのか、心の安らぎのひとつなのですね。一緒に桜を見ることができたと。逆に言えば、そこまで頑張ってねというメッセージもあったのかもしれません。それで妹は本当にそこまで頑張って生きていたのですね。
それで急激に悪化しまして、入って2日目の夜ですね、息を引き取ったのは。ですから正直言って本当にたいへんな状況の中で移ることができたのが不思議なくらいで。病院の先生に『本当にたいへんな状況でよく移られましたね』ということは言われました。ですからタルセバという未承認薬を使うチャンスもなく、妹は逝ってしまいました。」