「やはりいろいろな情報が入ってきますよね。妹の場合、一生懸命耳を閉じ、目を閉じてもどうしてもやはり死に関する不安というのはつきまとっていたと思うのです。唯一気がかりだったろうなと思うのは、やはり中学生の息子を残して先立つことになったら、それは彼女としてはいちばん辛いというのが、やはり最後の最後まであったのではないかなと思います。
これはがんに対する見方だと思うのですが、交通事故だとすぐにその場で亡くなるという方もいらして、それこそ息子にあと20年かけて教えるということが瞬時で終わってしまうというパターンがあると思うのですが、妹の場合、18ヵ月、いろいろと自分の息子と非常に密に接する時間がもてたということが、ある意味よかったのではないかなと思います。」
「心の支えはやはりご主人だったのではないですかね。私も到底できないと思うのですが、彼は毎日お見舞いに行っていました。一日とも休まなかったですね。逆にそれを可能にしてくださった会社、上司の方々、要するに、彼が定時で終わることができるように転属もさせて下さいましたし、それから得意先の社長さんがたとえば気功の先生をご紹介してくださるとか、本当に職場の方がサポートをしてくださったお陰で、妹の主人も毎日のようにお見舞いに来て、妹を励ますことができた。それがずっと、もう本当に18ヵ月間続いていましたので、私は本当に妹の主人には感謝です。」
「妹の周りのサポートチームですが、兄の私が応援団長。『元気出して頑張れ』という役で、妹の主人はどちらかというと心のケアをしていて、たとえば妹が辛いとき、悩みを聞いてほしい、泣きたい、というような時はやはり主人と一緒に泣いたという話も聞いています。それから子供がやはり中学生ですから、結構手間がかかるわけですね。そのためにうちの母と叔母が妹の所に住み込みでお手伝いに行っていましたので、そうしたことのお陰かもしれないのですが、妹は頑張って長生きしてくれたのではないかなと思います。」
「あまりにも私が『頑張れ、頑張れ』と言うので、頑張りすぎて辛くなったということがあるのではないかと思います。あまり私には弱音みたいなものを吐かなかったのですね。やはり辛いとよく泣くという話はあったのですが、私にはあまりそういうことは言わなかったですね。ですから、元気づけるような言葉を一生懸命かけてあげて『大丈夫だよ、大丈夫だよ』ということは言い続けていましたけれども、逆にもう少し肩を貸して、『泣いてもいいよ』というようなことを言ってあげたらよかったのかなと、ちょっと後悔しています。
もうこれは反省点なのですが、そのせいかどうかはわからないのですが、妹は非常に普通にしていました。がん患者らしくない患者さんですね。そういう時期がずっと長い間続いていました。最後の最後まで、ディズニーランドに皆で行った時も『本当に膵臓がん患者なの?』と、全くわからないぐらい元気にしていました。
それから、いつも楽しい雰囲気とか、何か自分で楽しいことを思い浮かべるようにしていて、彼女は安定している時はそうだったのですが、いつも笑っていましたね、笑顔でした。ですから、テレビ番組も楽しい番組を観ていましたし、皆でげらげら笑っていました。笑う門には福来たるというか、何かそんな感じでがんの治療にあたっていたというのが印象的だったですね。
やはり唯一の妹ですから、自分でできる限りのことはやってあげたいということがあり、チーム全体の中の旗振り役というか、おかしな話なのですが、それが悔いのないように最後の最後までできたということが自分自身の支えでもあります。」
「やはり非常に不安もあるし、めげてしまいがちだったと思うのですね。そういう中でも非常に気丈にがんに立ち向かって、自分で信じて治療を受けて、その結果、非常に長い間、家族と一緒にいることができた妹に、やはりよく頑張ったねと褒めてあげたいです。それから中学生だった息子も今はもう高校2年生ですが、大学進学のために一生懸命勉強していますので、『大丈夫だよ』ということを言ってあげたいですね。」