「最初に(妹を)父親が入院させたのは、おそらく、そこが単科の精神科病院だったからなんですね。単科の精神科病院だから、他の総合病院と違って、まあいいんだろうということでおそらく入院させたと思うんだけども、その当時、今から40年前の精神科病院のおかれている環境なんて、ものすごくひどい状況でね。
私もたまに田舎に帰ってきたときに妹のところに面会に行くと、大きな扉に大きな鍵がかかっていて、こちら側からインターフォンで『面会に来ましたよ』ということを知らせることによって、内側から鍵を開けていただいて、入ったんですね。中もひどいもんです。部屋もそんなに広い部屋じゃなくって、もちろん窓には鉄格子がはまっていて。部屋が、当時、4畳半くらいかな、4畳半くらいのところに少なくとも3、4人くらい入っているような部屋がいくつかあって。なんて言うかな、みんなが交流できるようなところもあるんですけども、今の各病院の交流スペースみたいに整然としたところじゃなくて。看護師さん達自身も何をやっていいか分からないような手探りのような状態でおそらく患者さんに接していたんだと思いますね。畳もすり切れるような状況だったですね、当時は。
今でも憶えていますよ。扉の音、『ギギギギー』という音が今でも耳に残っていますけどね。来るときも帰るときも、その音に迎えられて、その音で戻ってくるというようなねぇ。そのたびにやっぱし、ま、涙こそ流さないけども、切ない気持ちだったですね。」
「そのあと、(昭和)62年に私が住んでいたところから30分くらいのところにある病院(に転院しました)、家からも近いし、見舞いに行くのも楽だろうし。当時は、最初に入院した病院とその変えた病院の精神障害者に対する姿勢が、どうしても家の近くの(転院した)病院のほうが、当時としては、より優れている治療方針を取ってくれているような気が、私はしたので、そちらのほうに妹を退院(転院)させました。もうその頃、私も父親の要請でこちらに戻っておりましたので、私も父親と一緒に妹のことを考えるようになったんですね。
あの頃、県立病院から先生を送っていたんですよね。なので、先生達が結構新しい療法をしてくれた。そういう問題もあったのね。当時としては、今、入院している病院のほうが良いということですね。だから先生も良い先生に恵まれたと思います。新しい病院は閉鎖病棟と開放病棟とに分かれていたんですね。妹の場合は、たしか最初のうちは閉鎖病棟だったんですけども、しばらく経ってからすぐ開放病棟のほうに移されたんですよね。だからそういう患者さんのある程度の自由が確保できるような病院というのは、当時は珍しい病院でした。
うーん、こちらが面会に行くと、当時(前の病院に入院中)よりは、元気です。笑顔も見せてくれました。古い病院のときは『1日でも早く帰りたい、帰りたい』と言っていたんですけど、新しい病院になってから、もちろんこちらとしては病気が治ったらいつでも退院できるんだよと言葉をかけるんだけれども、古い病院ほど帰りたいと言うことはなかったような気がしますね。」
「まだ父親が生きていたときに、退院の可能性はあったらしいんですよね。ただどうしても父親が退院させなかったので、退院のチャンスが何度かあったのを失ってしまって、その間に入退院はあるんだけれども、結局は40年以上、病院生活を送らざるをえないという結果になってしまったということですね。それはほんとうに残念です。
妹が入院していた当時というのは、精神分裂病(統合失調症)に対する偏見とか差別はありますけども、それ以上に病気そのものが分からなかった。というのは妹も仮に外泊なんかしてきたときに、父親の、なんと言うかな生き様とか方針とかそういうこととぶつかるとあばれるんですよね。結構あばれて、父親も押さえきれない。女の子なのでそんなに力があるわけじゃないんだけども、あばれると押さえつけられない。そういう状況を何度か経験しているので、やっぱしそのままだったらば病院においたほうがいいんじゃないかという考えだったと思います。」