統合失調症と向き合う

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ぺこちさん
まるさん
(ニックネーム)
30歳、女性。2005年、26歳のとき、当時住んでいた沖縄で発症し2日間入院。退院後、東京の実家に戻ったがすぐに再発し、都内の病院に2か月入院。28歳のときに再発し再入院。退院後はいくつかの仕事に就き、現在は実家で両親と共に暮らしながら、絵を描くなどの創作活動を行っている。
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5再発までの経緯
●症状の出現

「(2007年)1月に(島に)行って、そしたら8月、1度目の覚醒と同じ日にまた覚醒してしまったんですね。ほんとに原因がわからないんですけども、また同じ日から始まって。

もうその頃は、薬を1mgだけっていう状態になっていて。リスパダールを1mg飲んでくださいっていうことで、それは(島の)病院に通いながら。でも、私は、もういらないなんて思って、働けるし、飲むと眠気がするしだるいし。薬を飲みたくないと思って、勝手に途中でやめちゃったんですね。その1錠も飲まなくなって。それで、最初に入院した当初から1番ひどいときで20kg太ってしまったんですね。で、すごく自分自身、自信がなくなって、嫌だったんですね。やせたいっていう気持ちがあって、過激な運動を始めたり…。あの、ビリーって(エクササイズ)あるじゃないですか。あれを、毎日、欠かさずやって、もう絞れるぐらい汗をかいて、1か月で5kgぐらい落とすペースで動くようになっちゃって、今度、回転が速くなり出しちゃったんですよね。そしたら、また感覚も鋭くなり始めて、動物の声が聞こえたり、音楽が、かけてないのに聞こえてきたり、匂いがしたり、声が聞こえてくる。で、母と父の声が聞こえて、助けを呼んでいるような気持ちになって、私はすごく心配になって、あ、助けなきゃいけないっていう気持ちになって…。

それで、8月、母の誕生日だったんですね。その日になぜかまた那覇へ、1度目も那覇で覚醒したんですけど、また那覇へ飛行機で行って、炎天下で12時間歩き続けるっていうことをしました。そのときも、ほとんど何も持たずに、お金と携帯(電話)とお守り、それぐらいをちっちゃなバッグに入れて、寝巻のまま行ったんですね。それで、歩き続けて。その歩くのにも意味があって、風が吹いて雲が流れる方向に同じように歩くんですね。歩いていくうちに、自分のものをすべて捨てていかなきゃいけないような状況になってくるんです。だからお金を捨てなきゃいけないとか、住所録だけ持っていったんですね、何かあったときに誰かに連絡とれるようにと。それまでも捨てちゃって、何か持っていると重いから。重いっていうのは重さじゃなくて、気持ちが重いっていう…。なんかもう、それは、天に行く準備をしているような状態だったんですね。いろんなことがあったんですけど。」

リスパダール(リスペリドン):非定型抗精神病薬
ビリー:ビリーズブートキャンプのこと。ビリー・ブランクスが考案した短期集中型エクササイズ、およびそれを収録した映像ソフトウェアの題名。

●沖縄で再入院

「自分で戻ったんですね、島へ。そしたら工房の人たちが心配して、那覇まで探しに来てくれた人もいたり。工房中では大騒ぎになっていて、どうにかして病院へ入れようっていう話し合いがまとまっていたみたいです。で、私は説得されて、みんなに心配かけて申し訳なかったなっていう気持ち(があって)。正気に戻っているんですよね。だからその冷静さも持っていたり、普通じゃなかったりっていうので、自分自身は普通の状態なんだけど周りから見るとちぐはぐでおかしいとなっていると思うんですけど、それで了解して病院へ自分から行って入ったんですね。」

●小さな部屋での生活

「病院に入ったら、今度は1度目よりひどい状況になっちゃったんですけども。牢屋みたいな部屋で、小さな窓しかなくて、トイレがついているお部屋に入れられて。ま、いろいろあったんですけど…。食べることは、自分の中で生きることの意味でもあって、お腹空いたって言って、泣きながらご飯を食べて、で、その部屋でお風呂にも入れてもらえず、ずうっと鍵を閉められた中で10日間過ごして…。

お薬もたぶん飲まされていましたね。何を飲んでいたかはわからないんですけど。自分の中で、時間の感覚もなくなるし。人って閉じこめられると、普通に自分から閉じこもっている分にはいいんだけど、相手から鍵を閉められるとか、出してもらえないっていう気持ちになると、ほんとに1分もものすごく長いんですよね。その1分を待つことも耐えがたいんだけども耐えるしかない。仕方ないんだって思って(いました)。

でも、周りには叫んでいる人もいるし、いろんな声が聞こえてくるんですね。耐えられない人がいて、窓ガラスを割る人もいる。そういう人たちのように見られてしまうっていうのは、みんな一緒にそういう待遇をするじゃないですか。でも1人1人違うから、それをちゃんと見てほしかったんですね。私は凶暴的になるわけでもないし、自殺するわけでもないし、話もちゃんとできるのに、なんでそういう処置の仕方しかできないのかって、すごい不満があって。だからナースも呼ばずに、あの中で、ご飯が入ってくる窓が鉄板みたいだったので、いい音がするのでそれを太鼓代わりにして、1日中叩き通したり。あとは踊りですよね。とにかく生きている表現をしたくて踊り回ったり、歌を歌って。心からの歌を歌うので、歌いすぎて、死にそうになるぐらい歌っちゃうんですよ。バタンって倒れて、『あ、このままじゃいけない』と思って、歯を磨いて正気を取り戻したりとか、そういう繰り返しをしながら、その中で生活して。なにか表現したいんですね。だから、ご飯が出てきたときに、箸の袋あるじゃないですか、あの袋をこっそり盗んで取っておいて、それに爪で文字を書いて、それを集めて、メッセージを持っていたりとか…。

とにかく、いつか理解してもらえるってどこかで思っていたので。そこに10日間入って、で、私が理論的にブワーッと先生に話したときがあって、それを聞いてやっと病院側が対応してくれるようなって、個室なんですけど、ベッドのある綺麗な部屋に移してもらうことになって、そこでやっと初めてお風呂に入れたり。だけど、まだ鍵はかけられている状態で、ご飯だけが届く。それが1か月ぐらい。」

●母親が毎日面会に

「母が1日に15分ぐらい毎日会いに来てくれて。沖縄で入院したって聞いて、すぐ来てくれて。で、母はなぜか私が働いていた工房で働いて。社長に相談して、社長もいい方だったので、『じゃあ、(私が)入院している間お母さん働いて』っていう話になって、母は午後からそこで(働いて)、午前中は私のお見舞いっていうか面会に来てくれて、それを毎日毎日ずうっと続けてくれて(いました)。」

●徐々に自由になる

「徐々に、外に、隔離じゃなくて、1時間だけみんなのいるところに行っていいですよとか、図書室に行っていいですよとか、音楽聴いていいですよとか、すこしずつ広げていっていただいて。で、絵を、1日2時間だけ1枚描いていいって。交渉して、(笑)絵を描きたいんですって、で、もらったのがクレヨンなんですけど、クレヨンで1日1枚絵を描いて。絵を描く時間だけが唯一の自分の楽しみの時間っていうのがあって、絵を描いたり、そういう生活をまた2か月続けたんですね。

病院の中で知り合ったおばちゃんとか、すごく面白い人たちがいっぱいいたので、その中でも楽しく。どんなところにいても、結局気持ちしだいだから、楽しくいたほうがいいなあってどっかで切り替えていたので、病院の中だけどおしゃれして、綺麗に髪を整えたりとか病室にいる人の髪を解いてあげたりとか、できることを病院の中ではやっていました。

2か月してやっと退院したんですけど、やっぱり工房では(もう)働けないっていうことで、また東京の実家へ戻って…。」

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