「3回目の退院の時は、また再発されたら、親戚のおじさんやおばさんが困るので、『先生、今度はほんとに大丈夫でしょうか』と言われて先生が、3回目だから今度は、まず、アパートはこの病院の近くに、3畳でも4畳半でもいいから探してやって、そこに住まわせて、週に1回、病院へ通うように。それから仕事、実は、2回目の再発の時には、私、こんな病気だったにもかかわらず、学校の先生が推薦状を書いてくれた会社に就職が決まり、就職しました。ある電気会社の総務課に入って、4月から3か月ぐらいは、一応その会社に通っていたんですけど、そこで、再発しまして3回目の。それで入院しまして…。
で、3回目の退院の時に、もちろんその会社はクビになっていましたが、その時に、先生から、『大学は出ているけれども、まず、頭脳労働は無理だから、単純労働、手仕事みたいなものをやるような仕事を探してやってください』と言われました。当時私の親戚も土建屋などをやっておりまして、力があったものですから、そういう仕事を見つけてくれまして、最終的には東京で仕事をもらえたんですけども。病院へ通って、薬を飲みながら、仕事を…。アパート代だけは、親戚に払ってもらいましたけども、生活費は、まあ安い給料でしてね、その時はほんとに貧乏な生活で苦労しましたけど、10年ほどは外で暮らすことができました。
ところが、その頃、10年ぐらい経ってから、胃潰瘍になったらしくて、ストレスが多かったんですね。」
「私、当時、胃潰瘍を病んでいたんですね。痛くて、その発作で我慢できなくて、内科の病院どこか行かなくちゃいけないかなとは思っていたんですけども。10年間ほど苦労して、いろいろストレスもあったものですから、いくらかお金の余裕もあったので、どこか温泉へ10日ほど行ってのんびり療養したら治るんじゃないかと思って、中学生の頃から、白虎隊で有名な会津若松(福島県)というところへ行ってみたいと思っていたものですから、上野駅から会津若松行きの特急に乗ったんです。それがだいたい38,39歳の頃だったと思うんですけど。
ところが苦しくて、電車に乗っていられなくて、降りたところが大宮駅です。大宮駅のプラットホームで、倒れて苦しんでおりましたら、駅員さんが来まして、『救急車呼んであげましょうか』と言われたものですから、『お願いします』と。で、救急車に乗せられて、ある市内の民間の総合病院の精神科の病棟に収容されました。」
「救急車の職員が私の両肩を持って、駅の(救急)車のところまで連れてってくれたんですが、その時、私は、変なことを口走ったんですよ。何かと言いますと、私、実は満州生まれで、8つの歳まで満州にいたんですよね。それでその時ね、肩を持たれながら『俺は満州に帰りたいんだあ』と言ったらしいんですね。それで、『これは、頭がおかしいんだ』というわけで、総合病院で内科も外科もあって精神科もある、その病院に収容されたんです。
私、今でもそこの病院に月に1回、診察を受けに行っていますけども。」
「担ぎ込まれて入院して、精神科の病棟でいつもの薬を飲ましてもらって。私、幸いなことに薬を飲むと頭のほうはちゃんと普通に戻るんです。そっちのほうは割に早く幻聴や妄想を抑える薬ですから、それは(飲むのを)やめるといけないんですけど。
ただ、ここ(胸)が痛いのがもう苦しくて。その冬は、ほんとに夜、眠れなくて、看護婦さんにお願いして、痛み止めの注射を、夜寝る前にお願いしました。それで、結局、精密検査の結果、胃潰瘍だということで、入院した年はもう12月でしたけど、翌年の8月に開腹手術を受けました。胃袋3分の2ぐらい取られまして。重湯だとかジュースだとか、おかゆだとか煮魚とか野菜とか、そういうものを食べられるようになってきますと、これがだんだんだんだん膨れ上がってきまして、今、ここに、私は胃袋みたいなものができちゃいまして、お陰様で、30年以上も前の話ですけども、何でも食べられます。」