「(仕事は)ほとんどしていません。ピアスタッフになるまで、今のこの業界に入るまで、32歳まで8年間はほとんどしていません。(その)間、1年弱ぐらい、再発する前に少し(仕事を)したぐらいですね。実家におりました。
今も信じられないのですけど、テレビをずっと見ていましたね。朝も昼も、テレビを見て、ドラマは全部見ていましたものね、月曜から日曜まで。ドラマを全部見て、歌番組を見て。昼夜逆転するからですね、夜遅くまで、2時・3時まで深夜番組を見てみたいな……。ま、時々出かけたりはしていましたけど、出かけるといっても、そんなに元気のいいことというのはなかったなぁと思いますね。」
「27歳で2回目の再発をして、1年経ったぐらいからデイケアに行き始めたのですね。週1回か2回デイケアに行っていましたよ。で、そこで出かけるようになって、1つは当事者活動と出会った。「久留米出会いの会」という当事者の方が集まるグループがあったので、そこに出かけていく中で、たぶん31歳の時だと思いますけど、仕事に就く前に、ケアマネジメントモデル事業というものがあったのですね。それのモデルになりました、私自身が。それがもう十何年前? 17年前ぐらい。
そのモデル事業がうまくいったわけではないのです。当時、僕がモデル事業をした時は、職親制度で仕事をしていたのですね。それから就労に結びつけようみたいなケアプランだったかなぁというふうに憶えていますけど、結局、途中で挫折しているのですよ。
職親制度というか福祉的就労もうまくいかないで、ま、どうしようもない時期にそのモデル事業を行った「ピア久留米」という事業所というか生活支援センターが、ピアスタッフを4人雇いますよという時があって、そこに応募して、たまたま入ったという感じですね。
1日6時間の週3日の勤務だったんですね、最初はですね。で、1日6時間勤務したら、最初の頃は2日寝て、体力が続かんというぐらいきつかったですね。たぶん2年〜3年経った頃から、週4日ぐらいは出勤できるかなという感じにはなりまして、最後のほうは週5日とか働いていました。そこ(生活支援センター)には、5年半いましたね。」
職親(制度:通院患者リハビリテーション事業):精神障害者が協力事業所(職親)に通い、病気のために低下した集中力や仕事に対する持久力、対人能力、環境適応能力等を養い、社会的自立の促進、社会復帰を図ることを目的としている。
「きっかけは、35歳の時からたぶん学校に行き始めたのだと思いますね。実務経験が2年か3年経ってから、学校に行き始めた。通信教育を受け始めたのですけど。1つは、精神保健福祉士の知識を深めたかったというのと、やはりもっと働きたかったし稼ぎたかったというのがあったので。当時、正職員はみんな精神保健福祉士だったのです、そこの職場が。それもあって受けたのかなということですね。働きながら(資格を)取ったっていう感じですね。
『(資格を)取っといていいよぉ』ということ(アドバイス)はなかったですね。取る要件を満たしていた。大学を卒業していたし、実習免除の期間も、もう終わってというところで。周りでは、(資格を)取っている人もいたかもしれないけど、ほとんどいなかったですよ。当事者で精神保健福祉士を取ったという人は。もう10年ぐらい前になりますけどね。」
「僕はね、もう、持論というか思っていることは、たぶん統合失調症の方だったり、まあ精神障害の方、うつ病の方もそうなのですけど、訓練して能力を伸ばすということももちろんあると思いますけど、それよりも、本人が『何か仕事をしたい』という時に周りが背中を押してあげられるかどうかというところ。やる気があってこれをやりたいという時に、それをサポートしたり応援することを(できるかどうか)……。
だいたい『やめとかんね』とか『無理せんように』という言葉かけのほうが多いかなぁと思いますけど、僕は、『じゃあ、やりたいなら、無理かもしれんけどやってみたらいいんじゃないか』とか、そういうタイミングというか、背中を押す周りの声かけというか姿勢というか、それが仕事と結びつくのか(な)。で、仕事を続ける上でも、『きついならちょっともう休んどかんね』と言うのではなくて、『もうちょっと頑張ってみようか』とか、そっちのほうが僕は大事かなぁと思っていますけどね。
失敗してもいいと思っているので。僕自身がもうアルバイトを10個も20個もやってきて全部ダメでというところで、最後に辿り着いたのがピアスタッフだったので。それはね、失敗する権利があるというか、自分の責任で失敗しなさいよということでいいのかなぁと思っていますけどね、就労に関してはですね。」
「ああもう、あります、あります、もちろん。そんなことばかりです。
このピアスタッフという仕事をする前は、一般の企業に、クローズで働いていたのですね。で、職親もダメでというところで、その頃ちょうど僕は、障害者手帳を取った。障害者認定を受けたのですね。で、まあ、当時27〜28年前にその(障害者)手帳をもらって、『あ、自分はもう障害者なんだ』と諦めたことが今の仕事と結びついたかなと思っています。諦めたことによって、ピアスタッフということをチャレンジできたし続けることができたかな。障害者というところでやれる仕事を見つけたということかなぁと思いますけどね。
(葛藤は?)もちろん。葛藤というか、やはり一般企業で、僕、大学を卒業してすぐ発病しましたので、やはり『普通のサラリーマンとか勤め人になりたかった』という思いがあって。ま、同級生も、そんな友達ばかりですし、その思いは強かったですね。いろんな思いはありました。
(障害者認定を受ける時は)やはりずいぶん悩んだし…。家族も、口では言わないけど、ま、落胆はしなかったのでしょうけど、『障害者になるのか』というかですね、もしかしたら薬は飲み続けても、また働けるようになれるかもしれないという。普通のですね、普通の健常者のように働けるかもしれないという思いの中で、もう手帳を取ろう、障害者認定を受けようというところは、家族も、とてもショックだったのではないかなぁと思いますね。」
精神障害者保健福祉手帳:2年ごとの更新が必要。更新時期の患者さんの状態に合わせて手帳の等級(1級、2級、3級)が決まる。生活保護の障害者加算や税金の優遇措置など、経済的な支援を受けられるようになるほか、自治体によって異なることがあるが、交通費、通信費などの負担を軽減できる。