「がんは自分の頭のなかではもう “死” というイメージしかなく、胃が問題ないとわかった時点で、がんは想定していませんでした。しかし、先生が検査のモニターを一緒にみながらひと言、『あっ、これは!』と言われ、さらに『42歳で若いから・・・』というひと言が想像を絶する以上のショックでした。『体力的に若いから手術に耐えられる』という意味なのか、それとも『42歳で若いからもうダメ』という意味なのか、知識がなかったのでわからず、『待てよ・・』というようなものが一瞬よぎりました。その当時、剣山がお腹のなかをグルグル回っているような激痛があり、えぐられるような痛さがあったので、『なんとかしてください』とそれしかなかったです。
とりあえず細胞を取っていただき、後日結果が出るということでした。検査が終わってから廊下で先生と少し話をして『先生あの・・・たいへん申し訳ないけど、何人ぐらい診ていますか』と質問をしました。それで『2000人以上診ている』ということでしたので、『そうすると細胞をみるよりも、(画像の)みた目でわかるのではないですか?』と聞きました。するとやはり『間違いなく悪性です』と言われ、それががんの告知だったのかなと思います。ですから告知はあっけないというか、テレビで観るような感じではありませんでした。『あ、そうなんだ・・・』と、もうそれしか頭になかったです。
先生も僕に気をつかって、『大丈夫ですか』とひと言、言われました。何が大丈夫かわかりませんでしたが、僕も食事をしておらずお腹のなかには何もないと認識していましたから、まず(がんを)切ればいいだろうと思いました。しかし入院・手術の日が未定で、その間、お腹にがん細胞があるのは相当負担だと思いました。腸が約80%も塞がっていて、これから先、腸が破裂して死んでしまうのか、がんで死ぬのかどっちなのかという疑問が心のなかにあり、先生に『早くこれを切っていただけないか』と話をすると、先生がひと言『大丈夫ですよ。何十年物のがんなので、まだしばらくは大丈夫です』と言われたことを記憶しています。それで精神的に少し安心しました。
安心はしましたが、何十年物と言われると、確かに若いときに黒便は数回出ていると記憶していて、それが血便だったかどうか、資料をみても便が何色であれば血便なのかがわかるものがなく、自分でもそれが判断できませんでした。しかしたぶんあれが血便だったのだろうというものは、深酒をするたびに出ていました。
二十何年物(のがん)だと言われても、これから先、(自分の身体が)二十年もつかわからず不安だったので、やはり『早く切ってもらいたい』と先生にお願いしました。」
「病院から帰ってくるとき、まず家に帰らず本屋に行きました。がんのコーナーに行くといろいろな本があり、見れば見るほどどんどんどんどん恐怖心が出てきて、正直な話、何が正しい情報かわからなかったです。大腸がんに関する情報雑誌をすべて見て12〜3冊買い込み、またインターネットでも調べました。サプリメントの本もたくさんあり、できることならすべてやろうと決めたので、早急に取り寄せるなど、そういうことはいたしました。
がんの知識が全然ないので、助かるか死ぬかもわからない状況のなかで、自分がどういう症状なのか、似たような症状の方がいるのかどうかという情報を集めるのに必死でした。インターネットで調べると、1件だけ大腸がんの闘病記を書いておられた女性がいたので、その方の情報を元にしながら、いろいろ試行錯誤して情報を集めました。」
「人間誰しもそうですけど、最悪のことは考えたくないため、“ステージ1であれば切ってすぐに帰れる”という思いでいました。しかし、病理検査の結果は“ステージ3”でした。『じゃ、切るしかない』と思いました。大腸がんはステージ4が最終的なものなので、まだひとつ手前でなんとか持ちこたえました。
もうひとつ心配だったのは、ほかに転移があるかどうかでしたが、それはお腹を開けてみないとわからないということでした。その辺はもうお任せするしかないので、開けてみてからお願いしますと。腹をくくらなければいけないときは、くくらなくてはいけないというのを、そこで改めて思い知りました。」
「診断があってから入院するまでに2ヵ月近く開いていました。その間は相当不安で何をしていいかわからなかったので、徹底的にサプリメントに走ってしまいました。自分自身の精神的な安定を求めたということだと思います。
当時、たばこを吸っていました。残り3本だったので、3本吸いながら『止めるべきか、吸うべきか、続けるべきか』を考えました。当然、お酒はもうやめました。たばこは2日目でその3本全部を吸い切って、『止めよう』ということでやめました。
あとは自分の心構えと、家族にどう話すかということでした。それで、『がんなので手術する必要がある』という話はいたしました。しかし、手術日も入院すらも全然決まっていない状況で、『いつ入院になるかわからないけれど、体調が悪ければたぶん、病院に行って入院の手続きになると思う』と伝えました。やはり、“がん=死”というイメージだったので、父と母にも伝えるかどうしようか考えました。ただ自営なので、仕事している以上は家族全員の協力なくしては入院できないと思い、一応がんであることは話しました。
子供は当時、保育園で4歳と2歳だったので、『死ぬかもしれない可能性はある』という話はしましたが、ただ『助かる病気だと思う』とも話しました。そのとき(子供たちが)理解していたかどうかは、僕にはわからないです。」