「外科の先生を最初に紹介されたとき、『まだ手術の日にちが決まっていないので、また連絡します』という話でした。ところが食事をしたときに調子が悪くなり、次の日にいても立ってもいられない状況になり、かみさんと一緒に病院に行きました。すると主治医に『もうだめだね。これは待てないからすぐ入院してください』と言われて、すぐ入院になりました。不思議なもので、入院すると『何かをしてくれる。これで治療が始まる』という安心感があり、あとは点滴で絶食になったので、体は相当楽になりました。腸がだいたい85%以上詰まっていて、上からも食べられない、下からも出ないという状況だったので、そういう意味ですごく楽になったと記憶しています。
入院したのが11月16日、手術が12月2日でした。早く手術をしていただきたいという気持ちがあったのですが、がんをある程度小さくしてから手術するということだったのか、その説明はいっさいなかったです。『手術室を待っている』としか言われなかったので、その辺は僕としては『どうなのかな』という気持ちでした。
仕事もありましたから、外出許可を取れるかどうかがまず最優先で、外出許可は取れるということでしたので、痛みがなければ外出して仕事をするという生活をしていました。やはり点滴とはいえ、多少なりとも排便があるので、いっさい口から入れないにせよ、すぐに痛みが取れたわけではありませんでした。ですからその間の痛みは我慢しました。お腹に刺すような痛みはなくなりましたが、便通をするときにほとんど下痢なので、やはり肛門の周りがただれたりして、そういうものは我慢しました。
緩和の情報が僕には全然なかったので、“痛みは我慢するものだ”という認識で、とにかく薬を使わないほうが体にはいいのかなと思い、少しの痛みなら我慢していました。病院にいながら我慢するというのも少しおかしいとは思うのですが、素人考えで、がんは手術すればなくなる、痛みは我慢すればいいだろうという感覚がありました。結局、がん細胞を取ることが最優先なので、ほかの(痛みの)治療よりも、先にがんの治療をお願いしたい、もうただそれしかなかったということです。
1週間くらい前に『いよいよ手術できますよ』と言われて、『わかりました』ということで手術に臨みました。自分で情報をかなり集めていた関係で、(手術については)簡単に考えていて、病院はどこでもいいだろうと思っていました。とにかく、がん細胞が体からなくなることを最優先にしたので、そういう意味ではほかのことは我慢しました。患者として我慢しなければいけないところもあるので、それはそれとして必要ではないかと思っています。」
「パソコンを病室に持ち込んでおりましたので、手術前日に子供や家族に対して、自分が亡きあとのことを想定してきちんと皆にメッセージを書いてフロッピーに残しました。それを友人に託して『何かあったら渡してほしい』と、そのようなことはいたしました。
手術当日は朝いちばんに起きました。手術を担当する先生が来て、先生の顔をみて『いい顔しているね、先生。大丈夫だよ』と逆に先生を励まし、“なんとか成功したい、成功させていただきたい”という願いでいっぱいでした。」
「手術が終わったときに、僕は手術台の上で『皆様、ご苦労様でした』と先生達に話をしたということをあとで聞きました。僕は全然記憶になかったのですが。ただ、終わってほっとしたというよりも、がん細胞が本当に体のなかにあるのかどうかと、レベルの問題が非常に気になりました。硬膜外麻酔の副作用が多少あり、頭がぼんやりしたり、頭のなかで二重に音が聞こえたりということもありました。それが異常かどうかは、本来はわからないのですが、闘病記を参考にしていたお陰で、それは一時の副作用だとわかりました。それ以外の副作用はあまりなかったです。管を入れられて動ける状況ではなかったこともあり、たいして大事には至らなかったというのが実際のところです。『すぐに歩くように』と言われ、歩きながらリハビリをしました。痛みそのものは麻酔が効いているので全くないに等しかったです。」
「退院予定日が12月21日でしたが、その1日前にイレウス(腸閉塞)になりました。病院では重湯から始まって流動食といった食事が出ますが、食べることによって回復が早いと認識していたため、きちんと残さずに結構無理して食べていたのです。それが治ることの近道だと思いましたので、思い切って無理して食べていました。すると退院予定日の1日前にイレウスになってもがき苦しみ、夜中の2時ぐらいからトイレに行ったところ全然一歩も動けなくなってしまい、4時間ぐらい朝まで便所のなかでもがき苦しみました。看護師さんを呼べばいいのですが、パンツもはいていなかったので、パンツだけははかなければと思い4時間かかってやっとパンツをはきました。朝、看護婦さんが来て『何しているんですか』と言われ、“やっと来たな・・”と。『いや実は苦しくて仕様がない』と言うと、『じゃもうすぐ検査しますよ』と言うので、検査するとまた退院が伸びるのではないかと思い、『ちょっと、あのベッドまで連れてってくないか』と話をしたら、『いやもうだめだ、検査だ』とそこで先生と押し問答がありまして、検査となってイレウス管を挿入しました。そのときは正直な話、死んでいいと思いましたね。そのぐらい辛かったです。子供達や家族のことも考えていましたけど、その苦しみは“もう死んでもいい”と、はっきり自分でも思いました。」
「先生が私の病室に来て、『最終的な報告をしましょう』ということで、別れぎわにたまたま家内が病室に入ってきて、『何ですか』となりました。僕は本来、家内にはそういうことはいっさい言いたくなかったのが正直なところです。がんであることは家族皆に話はしていますが、詳細についてはやはり知られたくなかったというのがあります。なぜなら、自分がもしいなくなったら、あと彼女の人生をどうやって過ごさせるかを考えたときに、やはり自分の思いを断ち切らせるためにはすべてを言わなくてもいいのではないかという気持ちが僕のなかにあったのです。いま、家内はそのことを知っていますけが、それがよかったかどうかは僕にはわからないです。正直な話、決していまでもいいとは思っていません。たとえば、これがステージ4で何ヵ月後かに亡くなると言われたとしても、僕としてはやはり話すべきではないと思っています。ただ、がんは皆で協力して闘わなければいけないこともよく理解していますが、やはり彼女のその後の人生を考えたときに、すべてを知ったうえで負担になるよりも、知らずしてそのまま新しい人生を過ごさせたほうがいいのかなということは、僕の遺言にもきちんと記載してあります。」