「原発は小腸の空腸という部分で、十二指腸から先のいったん折り返す部分の空腸という栄養を吸収する部分にあることがわかり、そこをとることによってご飯を食べられる、そうすると多少免疫も上がる、栄養状況がよくなるということで、『まずご飯を食べられるように戻すよ』ということでした。」
「手術が終わって数日後に重湯が出されたのですが、その重湯を一口飲んだときに、『こんなにおいしいものがあるのか』と思い、『もしかしたら、どんなことがあっても私は生きられるんじゃないか』と思いました。食べられなくて、鼻から(栄養を入れる)管が出て、高栄養点滴を首の脇から入れている状況と、今すべて身体からはずされて一口ご飯を食べようとしている自分とでは、その差があまりにも大きかったので、とても手術は成功したんだと思って、『私、生きられるかもしれない』と思いました。」
「家族はいろいろな話を聞いていたので、これからがんばらなきゃいけないということがわかっていました。食事が始まって、通常のおかゆぐらいまで戻ったときに、主人と夜、外に出て、話を聞いたのです。『直腸に大きな腫瘍がある』ので、『がんばって治療できるか?』と。今度、化学療法科の先生と一緒に話し合うことになっているけれど、『全部聞いてできるか?』と言われたときに、まぁちょっと2回目のどん底にまた落ちたような感じで。『は・・そうか、甘かったな。そうだな、あんなに写真に映ってたんだもんな』と思いました。」
「そのときは“小腸の空腸がん原発による腹膜播種”という診断で、腸のほぼ全体にがんが散らばっている状態でした。直腸にあるがんが約3cmを超えていて、子宮と膀胱の一部にまでいきそうになっていました。
化学療法科の先生のところに行き、抗がん剤治療の内容を聞くと、『実は小腸がんには抗がん剤がない』という説明を受けました。先生は『(小腸は)どうしても部位的に珍しい。米国の学会で発表された論文のコピーを読んでも、使われている抗がん剤は日本では認可されていない』ということで、『これから君には、胃がんなどに使われているTS-1という抗がん剤を使っていこうと思う。タキソールという案もあるけれど、多分がん種からいって効かないだろうということと、今体力もなく非常に危険だからTS-1から始めていこう』ということでした。
私はそのときに『なんでもやりたい。これも効かなかったら次のものを。治療が未知数で、もしかしたらどれかは効くかもしれないという可能性を秘めているなら、全部順番にやらせてほしい』と泣いてお願いをしました。それでまずTS-1から始めました。
(岩手での)腹膜播種の治療自体は、抗がん剤で少しでも長く生きられるように延命治療をするというくらいであとは何もないです。正直なところ、“その日を待つ”というような状況でした。」
「(TS-1は)4週間飲んで休薬をしてまた飲むという繰り返しでしたが、途中で腸閉塞を起こしてしまい何度かいったん中断して、またよくなると始めるという感じでした。
腸閉塞は、これはなった方にしかわからないであろうという痛みで、一晩中ベッドの柵にしがみつくというような痛みでした。多分私の中では腸閉塞(の痛み)が今までの中でマックス(最大)だと思います。すごく痛くて、鼻からバルーンの管を入れて※、腸を広げるということを何度もやっています。(バルーンの管を)鼻から入れるときは苦しいのですけど、それ以上に腸閉塞自体が痛いので、『解消されるのだったら何でもしてくれ』という状況ですから、管を入れるのはもう痛くないです。」
※鼻からバルーンの管を入れて・・・腸が狭くなり通りの悪くなっている部分を拡張して通りをよくするために、バルーンと呼ばれる風船のようにふくらませることのできる細長いチューブの管を鼻から入れる治療方法。
「(腸閉塞で)入退院を繰り返して病院に入院しているときに、保育園が終わった子供たちが『ママー』と言って駆け寄ってきました。そのときに下の2歳の子を抱き上げられなかったのです。それまで片手で抱いてスーパーでお肉を見ていた自分が、両手でも抱き上げられなくて、しゃがんだ太ももが上がらない、太ももに力が入らない。
それは私にとって大ショックで、『これはいけない』と思って朝5時半に起きて、毎日1日も欠かさずスクワットを病院の1階でしました。多分これは女性とかではなく、母というその精神がそうさせたのだと思います。母親である自分がこれでは、もし子供の具合が悪くなったらどうしようという思いから『こんなんじゃいけない』と思って、毎日毎日検温が始まる6時前に行って体操をしていました。でも先生に『検温が終わってから行くようにしてね』言われて、時間は変えたのですけど、毎日やりました。」