「でも、それは、まだ特例子会社ではないんです。一般企業なんです。親とか作業所の職員に言ったら反対しますよね。まだ退院して2、3か月ぐらいですしね。一般企業で、また調子を崩したらどうするの? とか、やっぱり、当然ですけど言われて…。
でもまあ、ある意味、これは自分の天職になるという思いはありました。もう何の根拠もなく、自分が。だから親も作業所も、『じゃあ勝手にしなさい』みたいな感じで。ということになれば、もう、自分で自分の責任を取らなければいけないわけじゃないですか。自分も身を切ったわけですから。じゃ、自分で全部やるみたいなことになったわけですから。
でも自分の力ではどうにもならないことはやっぱりあると考えた時に、ちょうど(会社の)場所が、お寺も結構あったので、選考期間中、毎日お寺に参ろうと決めたんですね。そのお寺の名前が、円通寺というのですけど、エンは1円・2円の「円」に、通じるのお寺です。これはすごくいい名前。円というのは丸ですし、合格というのを連想させるに通じる寺? そのお寺の通りに面して本社があったんですよ。で、朝の始発のバスに乗ってお寺に参って、で、会社も見て、そのままとんぼ返りして作業所に行く、朝、普通に作業所に行くみたいなことを1か月半ぐらい、土日も含めてやり通しました。それが通じたんでしょうかね。内定をいただいて、ああ、やっとここがほんとうの自分のスタートラインだなと思いました。」
「ほんとラッキーだったというか、人事に回されたんですよ、私は最初。で、そこの隣が、障害者雇用担当の方だったんですね。
そこで一から、いろんな、他の人みんな一般の社員の人ですし、どうやっていいのか、自分は作業所とかそういうところしか知らないので、会社のマナーとかがやっぱり分かっていなくて、それを何度も、ほんとうに粘り強く。お互いにもう何でも言い合う。今も、付き合いはあるんです。付き合いというか、なんて言うか同志みたいに思うような感じで。その方も1月に入ったばっかり。その方が初めて採用したのが僕で。障害者雇用担当の人です。」
「そこで、いろいろ最初は結構大変でした。1年目はほんとうに大変で…。ちょうどその時宅建(資格試験)5回目というところもあって、受験する時29歳だったので、その年に受からないと、次は30代ということになって、不動産の会社にも入ったことですし、もう絶対合格しなければいけないとか。
で、仕事は仕事でやる。けれどいろいろ、まあ、会社のことがちゃんと分かっていないから、結構、周りの人はほんとうに暖かく見守ってくれたなと思いますね。で、なんとか、その年、5回目にしてやっと宅建が受かったんですよ。もう精根尽き果てるぐらい仕事もやって勉強もやって…。で、まあ、息抜きにフィットネスジムなどにも通い始めていて、その時。何かしていないと落ち着かなかったみたいですね。」
「まあ1年目が終わって、その時やっぱり課題だったのが、仕事に対しての集中力が途切れるとか、人間関係的なマナー的なこととか。
あとやっぱり、生活リズムがまだ一定していなかったんですよ、朝早く起きたり夜遅く寝たりというので。それを結構何度も何度も指摘されて…。30歳になる時に、ちょっとここでリセットして、朝型生活に切り替えようと決めて。そこから、結構、辛かったんですけど、いろんな誘惑を断ち切って、早寝早起きを実践して、今も続けています。今、眠気はなくなりましたし、割合調子が良く。今は、1人暮らしを始めたので(午後)8時、20時ぐらいに寝てしまって、朝は4時とか5時ぐらいに起きるみたいな感じでやっているんですよ。でもなんか朝の空気ってほんといいなと思って…。」
「(特例子会社に)3月1日付で転籍しました。設立したのは、2011年の2月です。そういう会社を作ったからと言われて、もう涙が…という感じでしたね。
特例子会社にずっと入りたかったですし、その後も障害者雇用とかのことも結構ずっと調べ続けていて…。もともと、人事的な仕事をやらせていただいていたものですから、採用とかそういうことにも興味を持ったり…。1例ではありますけど、それを3年8か月見てきたわけです。そこからまあ、もともと障害者雇用とかでしたけど、そういうのにもっと興味が出てきた。で、特例子会社とかで、最近流行りのIPSとかACTとかそういうものなどもあれして(注目されて)きていて。
ちょうどその時ぐらいに、いろんなことが(ありました)。きっかけは同僚から、『津田さんのことを尊敬していますよ』みたいなことを言われて、突然なんですけど。すごくいろんなことにチャレンジしているじゃないですかと言われて、あ、そうかと。『特にそんなに意識したわけではないんだけどね』みたいな話をしたのですが、自分は。それが2011年の2月の下旬です。
で、自分が何をやっただろうかと数え上げたら、詩作を始めたこととか、歌です、ポエムを書く、七五調でですけど、書くこととか、宅建とか、今の会社に入ったこととか…。
あと、これは会社とは直接関係ないのですけれど、憧れの人に思いが通じたということがあって…。その人から年賀状とか、テレビに出るからそれを伝えてくれないかみたいなことを、家の電話のほうに(あって)、父親が受けてみたいなこと。そこまで(自分を)気にしてくれていたんだと。もうほんと、そのことに関しても結構あるので。
あと、僕ずっとユーミン、松任谷由実が好きでした。でも、それを学生時代はからかわれていたんですけど、ユーミンを漢字に当てると、『優しい民』と書けるじゃないかと思った時に、これでもう恥じなくていいんだと思いました。そういうことがいろいろあって、『なんかあるな』と思った矢先に、3月1日に転籍をして、その3日後に、コンボ(NPO法人地域精神保健福祉機構)のモデル(雑誌『こころの元気+』の表紙モデル)の話が来たのが、ほんとうにすごいタイミングなんですよ。」