統合失調症と向き合う

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こだぬきさん
こだぬきさん
1967年(昭和42年)生まれ、48歳(収録時)。13歳で「被害妄想」の症状が出て小児科を受診する。20歳(大学3年生)の時に症状が悪化し、単科の精神科病院に入院する。大学では文化人類学を専門とし、2年遅れで大学を卒業する。その後、アルバイトをしながらスペイン語を勉学。2002年にペルー人男性と出会い、2003年に結婚。それを機に実家のある東京から地方都市に引っ越す。現在は、普通の主婦として週5日パートで働いている。在住する県の登録スペイン語医療通訳有償ボランティアも行っている。2012年に長男が誕生し、生後7か月から現在まで、ペルーの夫の妹の元で育っている。現在も「被害妄想」の症状がある。
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6支えとなったもの
Q.自分らしく生活していくための支えとなったものは何ですか

「実は、私がなぜここまでくる(回復する)ことができたかというと、非常にはっきりした理由があるのです。自分の病気の問題とは全然別の分野、病気とは無関係な自分自身の専門があったからです。

それは、大学時代の専攻でもあるラテンアメリカ、特にペルーですね。それが良かったのだとは思っています。まだ私の子どもの頃は、今みたいに外国人労働者がいる時代ではないですから、中学生の頃から、まだNGOという名前もなかった、NGOの前身のようなところに出入りして、かろうじて、そういう伝手から私の大好きな、当時は、ラテンアメリカ、ペルー単独にしてしまってもなかなか探せなかったから、まずはやっとできはじめていた『アジア』ということからスタートしたということなのですけれど。

そのNGOの活動をしていたから、病気になっても結局、ずっと健常者の仲間に囲まれて、そういう世界とつながりながら、ということが可能で、結局健常者との結婚、日本にいるペルー人との結婚ですけれど、そこに出所があります。

2本軸があることが意外に重要なわけ。1本の軸だと思い詰めてしまうわけね、人間は。ところが常にもう1本の軸があると、こちらが行き詰まればこちら、こちらが行き詰まればこちらと、常に逃げどころがある状態にいけるから、非常に重要なことなのです。

だから、私は、女性が働いていてすごくいいと思うのは、どんなに仕事をしていてもやはり…、私はそんなに仕事などしていないですよ、まったくの主婦のパートですから…、ただ仕事をすごくしていたとしても、家では家事をしなければならないでしょ?要するに、本人が望むと望まざるとにかかわらず2本の軸にどうせなるじゃないですか?それが人間にとってはいいことだと思うのです。

一応、子どもの頃から志して、国立大学で文化人類学専攻の中でペルーについて勉強したのですけど、そういう勉強をしても、こういう病気になってしまった場合は、ほんとうに残念なことですけれど、活かせない場合がほとんどだと思うのです。だけれども、私は、日本にいるペルー人と結婚して、そこの家庭の主婦という形で、毎日毎日毎日大学で勉強したことをフル活用できている。私、研究者になった友達よりも大学で学んだ専門を活かしてきているのではないかなと、そういうふうに思うのですけれど。」

Q.そのように思えるようになるまでには葛藤があったのではないですか

「私は、実は、こういうことを志すには、中学生ぐらいの時にもう在野の研究者ってすごく悲しい言葉だなぁと思って、『在野の研究者にならない』と固い誓いを立ててしまったのです。必ず職業として研究する研究者、なんらかの形の研究者になるという固い誓いを中学生で立ててしまったら、結局こういうことになってしまったわけでしょ?非常にそのことに苦しみ続けていたのですね。

数年前に私は地元の市の隣町の図書館に行ったのです。そしたら、そこが廃棄図書をくれているのです。興味があったわけではないのですけれど、せっかくだからもらってきたら、(その中に)児童書があったのです。『ぼくは農家のファーブルだ』という、害虫の駆除を天敵動物を使って行う、農薬を使わないで行うことの実践を子ども向けに説明した本だったのです。

その主人公は、農家の方なのですよね、天敵動物を使って害虫駆除を実践している。農家の長男に生まれて、農業高校から農業大学校に進学して農家をやっている。言ってみれば普通の方なのですよ。ところが、たまたま天敵動物の紹介を受けて、天敵動物を使ってトマトの栽培の実践をなさっている方なのですよね。

こういうふうに話がずっと続いて、最後に、その方が学会で発表する場面が出てくるのです。普段はけっして農家では着ないようなスーツを着てネクタイをしめて。当時、結構前の時代に書かれた本ですから、農業の合間にワープロで打ったレジメも用意して、颯爽とその方が学会で発表する場面があって。それで大学の研究者が必死でメモを取って、質問もどんどんして、その方がイキイキと発表している場面でその本が終わるのです。私、今、この話をしただけでほんとうに涙が出てしまうのですけれど。

結局、この方はけっして在野の研究者なんてものではないですよね。この方自体が研究している人である。いわば現代の社会というのは、職業的な研究者には交通整理役が好きな人もいるのです。ところが私は交通整理役になりたいから研究者を目指したわけではなく、研究そのものがしたかっただけですから、『あっ、そうか』と思って、すごく長年の苦しみに対する答えがついに見つかったと思って…、そこから胸を張って生きるようになりました。」

在野の研究者:学術部門における在野は、大学の教員に対して民間の研究者の事を指す。

Q.廃棄図書からの気づき以降について教えてください

「もともとの始まりは、ペルーについて勉強できる場として、文化人類学の専攻を選んだだけの出会いだったのですけど、その後いろいろな経緯を経て…。もともとは主人が、今はもう理解がありますけれど、2003年の4月に結婚して、服薬に対して理解がなかったために、2003年の秋には再発してしまったのですけれど、それから非常に苦しい時期を経ました。

2008年に、私は出身作業所が20周年の記念のパーティーをすると、うちの母に話したら、『せっかくだから(東京に)出ておいでよ』と言われました。それまではほんとうに再発してしまって家にこもっている状態だったのです。母が費用も出してくれるというので、出身作業所の20周年パーティーに出ていったら、その場で看護大学の精神看護学の女性の先生、教授に会ったのです。それで、私のいろいろな経歴とかを聞いて、興味を持ってくださったのです。

その時が2月だったのですけど、すぐ次の年度の4月からの1年間、4学年全部の授業で1回ずつ話をしてもらいたいと言われて、2008年度の1年間、看護大学の精神看護学の授業の中で、自分の闘病体験を4学年全部に話しました。再び回復して今の状態にまできたのは、そこに、はっきり起源がありました。

それで、その時に聞いたことがなかった『ナラティブ』という言葉をその先生から聞いたのです。ナラティブという言葉を今までに一度も私は聞いたことがなかったので、『京都奈良ですか?』とか馬鹿なことを言ってしまったのですけれど。結局、よくよく聞いてみて、いろいろ興味をもって自分でも読んでみると、そのナラティブ、あるいはナラティブメディスンという考え方、その研究の基礎になっているのは、実は私自身がかつて勉強していた時代の、文化人類学研究の成果などが、20年の時を経て、結局、看護学や医学の部分で見事に花開いて応用されているので、非常に、その研究に有利な所もあったのです。その後、いろいろな経緯があって、そこから元気になって、妊娠出産も実現しました。」

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