「ずっと薬の調整をしていたのです、妊娠できるようにするために。かつては大量の薬を飲んでいましたから。
妊娠しても大丈夫なまでの薬の調整で長い時間がかかるのです。だから結局、やっと薬の調整ができた時点で42歳になってしまっていたのです。女性にとっては常に年齢的なリミットの問題があるから、42歳になってしまってもうだめだと思ったのです。ところがなんとも44歳11か月で自然妊娠することができましたからね。
あれほど子どもが好きで、小さい頃から弟・妹を世話しながらいつの日か自分自身がお父さんになることを夢見ていた主人が、病気である私と結婚したために子どものいない人生に巻き込んでしまったらというの(想い)が常にあって、私はいっそのこと身を引いたほうがいいのではないかとまで(の想い)があったので、(子どもが生まれて)良かったなぁと思うのです。」
「私は持病もある上に高血圧で、出産時年齢は45歳になるので、県庁所在地の大学病院に送られてしまったのですよね。結構早い段階で、管理入院になってしまったし、子ども自身にはまったく問題がなかったのですけれども、(私の)血圧が200(mmHg)を超えてしまったから、早めに帝王切開ということになって(しまいました)。NICU(新生児集中治療室)にも入っていました。(私は)入院生活自体がトラウマなので、4日で出産後退院してしまったのです。帝王切開なのに。
そこからは子どもに最初はちょっとだけ初乳の時だけは母乳を届けたのですけれど、やはり薬を飲んでいますからね。そこから先は子どもに面会に行く形で、最初の1か月は向こうで部屋を借りて、そこから先は(自宅から)通う形で子どもに会いに行っていました。」
「せっかく多額の交通費をかけて行くから、大学図書館とかにも出入りする中で、やむを得ない理由からこんなに長い間研究から離れても、看護学の学術雑誌のナラティブについて書かれている論文が分かるのです。私の大学の専門は文化人類学ですけど、参与観察なのですね。フィールドワークということですね、簡単に言えば。子どもの頃からそういう勉強がしたいと思って、実際に大学で勉強しました、文化人類学という2本の軸があります。
1つの軸はもちろん病気のことですよね。もう1つの軸はペルーのことをやりたいから、場として求めた文化人類学のほうに起源があって、ずっと続いていた底流が、ある意味ではついにそこにナラティブというキーワードで出会ったのですよね。時がまだきていないのに、無理に(2つを)1つにしようと思ったらかえってだめなのです。それを2つ自由に伸び放題にさせておくわけ。ところが時期がくると1つになるということなのですね。
一番最初、その2つの道が出会うきっかけになったのは2008年の(看護)大学の精神科(看護)の先生との出会いですけど、そこから先、いきなり芽は出なかったのですね。それにちょっと先立つ時期に、隣町の図書館(の)廃棄図書の本にも出会っていましたから。
私2012年に出産しましたから、そこで、たまたま私が大学病院に送られて、出産することになったことにより、また久しぶりに大学の中にも出入りして、大学図書館も出入りし放題。そこから先、『今度はじゃあ、ナラティブということでいこう』と思っても、またそこでいきなりは、道は開けないのですよね
結局は、大学病院での出産にあたって、高血圧の関係ですね、内科とそれからもちろん精神科、それから産婦人科、私のかかっている全部の科をいったん大学病院に集めてくださいと言われていたので、いったん集めて。もう1回地域に戻る時に、もうそろそろ地域のクリニックに行っていい、入院病棟のないクリニックで十分と思っていました。
まったくの偶然で、ずっと市役所の市の保健センターで、もともと精神担当で、私が向こうに移った時からお世話になっていた保健師さんが、精神科のほうの専門で行くと決意なさって市役所を退職なさって、ちょうど同じ時期(に)、そのクリニックの保健師さんとして行ったのです。私は、『地元のクリニックにもうそろそろ移ります、子ども連れながらの通院は大変だから』と、もとから言っていたので、ものすごくスムーズにいったのです。最初に向こうに行ってお世話になった保健師さんともう1回そこで出会ったので。
非常に意外なことから道が開けたのですけれど、私の通うことになった今の地元の精神科クリニックが、待合室に『こころの元気プラス』(雑誌)を置いていたのです。バックナンバーをずらっと。そこから、今のこの路線(雑誌のライター)が開けたというのが、去年になりますね。
だから、結局、私の闘病体験自身が、一応文化人類学を学んだ人間としての貴重な参与観察、貴重なフィールドワークの機会だったと思っています。
ナラティブというのは、『物語る』という意味の英語らしいのですけれど、日本語の感覚だと、例えば、ストーリーとかそういうことではいけないのかと思ってしまうのですが。一人ひとりの人生は一人ひとりの物語であり、一人ひとりの闘病体験は一人ひとりの物語である。私が、もともと文化人類学研究で目指していたことと同じように、ごく普通の市民の一人ひとりの物語が大切にされる社会を作るために働いていけたらいいなぁと思っています。」