「私はスペイン語学科ではなくて、文化人類学専攻としてペルーについて勉強していたわけですから、本格的にスペイン語の勉強を始めたのは大学を卒業してからなのですね。2年遅れて卒業するにあたって、大学の同級生は、市役所や県庁の職員とか、あとは高校教諭とかになるわけですよね。教育学部ではないのですけども、教員免許が取れますから。あとは、コンスタントに1割の大学院進学者も輩出している大学でした。そういう中で私は明日をも知れない。
大学を2年遅れて卒業するにあたって主治医のほうから、非常にはっきりと、『就労は無理だ』、『作業所通所が適当、妥当である』という意見があったのです。ところがなんとうちの母が、『先生が、ああいうふうにおっしゃったことを働かない理由にするのであれば、必要なお金は先生からもらいなさい』と、もう奇想天外なことを言うのですね、うちの母は。それで、『それができないならば働きなさい』と言われて、それが、就労するようになったスタートですね。
当時フリーターという言葉は、実はまだなかったのですけれど、フリーターになるにあたって、私の母が言ったのです。『これから、アルバイトの生活になるにしても、何か目標があったらいい』と。で、『私が大学生活の中でやり残したことは、スペイン語の勉強じゃないか』と(母が)言い出したので、私がびっくりしてしまって。実は、ラテンアメリカ・ペルーについての専攻があって、そちらの世界的研究者の先生までいるにもかかわらず、第二外国語にスペイン語をおいていない大学だったという私の出身大学の制度上の問題を、私の大学時代にやり残したこととして、母が挙げていて。母のアドバイスにより、常にスペイン語を習得するという目的を持ってのフリーター生活になったのですね。
その当時、今とは全然違うバブル期の社会でしたから、演劇だかバンドだか知りませんけれど、自分の夢があるからとか言って、病気でもなんでもないのにアルバイト生活をしている若者のことが社会問題になったのです。私は病気が理由なのですけれど、『そういう人達だってことにしちゃえばいいじゃない』と母が言うのですよ。
母の名案により、そういう方向性がスタートしたので、長い時間をかけてスペイン語を習得することがなかったら、結局うちの主人というのは日本語ができない人ですから、そこで出会いと結婚もなかったわけですね。」
「無年金時代が13年あるでしょ。その無年金の問題が解決すると同時に、遡及(そきゅう)請求はできなかったのですけれど、決定が下りてからのタイムラグの3か月分ぐらいは出るじゃないですか。その3か月分をすべて引っ越し費用にあてて、早速グループホームに出てしまいました。
とにかく主治医が無理だと言っているのに、『年金がないなら働く以外しょうがないでしょう』と厳しく言うような親ですから、当然、自立という方向を考えていたのですけれど。結局、経済的にいくら自分で頑張って働いていても、東京で自活は無理ですよね。道が開けたのは、具体的には年金支給決定を受けて、そこの基礎をもって、プラス部分は既に働く体制ができていたから、職場もあったから、それで自活する形でグループホームに出たのです。
まったく『渡りに船』の障害年金受給決定だったのですね。(グループホームは)2年半で出ました。結婚して転居する形で。」