統合失調症と向き合う

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こだぬきさん
こだぬきさん
1967年(昭和42年)生まれ、48歳(収録時)。13歳で「被害妄想」の症状が出て小児科を受診する。20歳(大学3年生)の時に症状が悪化し、単科の精神科病院に入院する。大学では文化人類学を専門とし、2年遅れで大学を卒業する。その後、アルバイトをしながらスペイン語を勉学。2002年にペルー人男性と出会い、2003年に結婚。それを機に実家のある東京から地方都市に引っ越す。現在は、普通の主婦として週5日パートで働いている。在住する県の登録スペイン語医療通訳有償ボランティアも行っている。2012年に長男が誕生し、生後7か月から現在まで、ペルーの夫の妹の元で育っている。現在も「被害妄想」の症状がある。
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9年金について
Q.障害年金を受給できるようになった経緯を教えてください

「実は、私は最初は知らなかったのですね。初診が精神科でなければ、障害年金の申請自体ができないと思い込んでしまったわけです。インターネットが普及していなかった時代の悲劇だったのですね。初診自体が、小児科になってしまうのですよね。小児精神にかかっているから。それで、精神科(受診)になってからの一番最初を辿ると、学生年金ということになってしまうのですよね。結局、無年金障害者として、20歳から33歳までを過ごしたのですけれど。

33歳の時に、その当時、当事者団体の有給スタッフをしていましたから、そちらのほうの関係で一応相談機関とつながることができました。その時点ではまだ実家にいますから、保健所や保健師さんと連絡を取る許可は、まだ親から下りていないのですけれど。働いていたところの関係で、具体的に言うと全家連(全国精神障害者家族会連合会)の相談室を紹介していただいて、そこでなんと第一回目相談でいきなり解決してしまったのです。

私のケースは精神科以外の初診であっても、明らかに小児精神で、『被害妄想』という単語の明言もカルテにあって、13歳の時点で明確な初診がありますから、そこで、無年金の問題が解決したという経緯がありました。非常に早く支給の決定も(なされ)、ただ遡及(そきゅう)請求にはあたらないケースだったのですけど、年金が、そこから先はもらえるようになりましたから。結局、二十歳から13年間も無年金で、今48歳ですから、一応何年か前に、年金をもらえるようになった期間のほうがついに上回りましたね。」

Q.障害年金の受給は生活に影響しますか

「障害年金がなければ、親亡きあと生活保護になってしまう可能性が非常に高いという問題があります。こういう病気を抱えながら、なかなか自活までは稼げないですし。プラスには稼げるのです。働けないことはけっしてないのですけれど、自活まではなかなか稼げない。

それからもう1つ、いろんな人が指摘しているのは、なんとか自活で稼ぐことができても、持病がありますから、多額の医療費がかかる。それまで自分で出せる自信がないということで、ほんとうに多くの場合が親亡きあと生活保護になってしまいます。それで、『どうしたらいいんだろう』という時に、じゃ、もう結婚だと思って、すごく婚活をしました。それでもとから国際結婚、しかもペルー人と結婚したかったので、主人と出会って結婚したわけですから、まあ一応外国人労働者家庭の主婦という経済的にも社会的にもある地位を手に入れました。

一応私のほうからの貢献として、まだ就労していなかった時期も、家賃から公共料金の出費から全部、引き落としできるものは、すべて年金の口座からの引き落としにしました。主人からものすごくお世話になる生活なのですけれど、そういう分では私の必要な貢献もしています。(夫は)日本語ができない人ですから、24時間365日、私が通訳ですし、役所関係の書類も全部私が書いていますよね。そういう意味で非常に助け合う、お互い様夫婦というところがあるのです。」

Q.ペルー人のご主人はどのような方ですか

「南米の人ですから良くも悪くも、なんだかおめでたい性格なのですね。奥さんが病気で、しかも再発してしまって5年もうちで朝から晩まで寝間着(姿)で引きこもっているような状態になってしまったら、普通、困ってしまいますよね?だけれども、8人兄弟の上から2番目で、小さい時から、長男のお兄さんと一緒になって6人の弟と妹の世話でしょ。それから6歳からはもうお兄さんと一緒になって路上で物売りから始めて、お金を稼いで働いていますからね、うちの主人は。だからものすごくたくましいのですよ。

私が大学で勉強していた時のイメージは、児童労働の子どもって可愛そうだなぁと思ったのです。そういう子ども達のために働けたらという気持ちもあったのですけれど、そんなものではないのですよ。もうめちゃくちゃたくましくて強くて…。それで、そういう子ども達が大人になったらいい家庭のお父さんになり、言葉も分からない外国に出てもたくましく生きていく大人になるのですよね。

うちの主人は、外国人労働者として過酷な労働をしながら、一方では私の看病、一方では家事みたいなことを、2008年に再び回復するまでの5年間を支えてくれたのですけれど、『非常に悲壮な決意で』みたいな、そういう日本人の感覚とは全然違うのですね。非常に自慢なのですよね。とてもできないことも自分ならできると胸を張っているのですね。

私もそれ(ペルー)が大学の専門ですから、あちらの人達の性格は分かっていますから、『経済的にたいへんな家庭で、大学には行けなかったかもしれないけれど、あなたは大学で教えてもらう人ではなくて、今に教えるようになる人だ』とか言って主人をおだてています。そうすると主人もものすごく得意になってしまって、ますます助けてくれる感じで、非常に上手くシステムが回っていくようになっているのですね。」

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