統合失調症と向き合う

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糸川昌成さん
糸川昌成さん
(いとかわ まさなり)
精神科医・分子生物学者。東京都医学総合研究所に精神行動医学研究分野「統合失調症・うつ病プロジェクト」プロジェクトリーダーとして勤務している。1961年(昭和36年)生まれ。母親が病気体験者。分子生物学者として研究に従事しており、週に1度精神科病院で診療を行っている。妻、息子2人、娘1人の5人暮らし。著書に「臨床家がなぜ研究をするのか—精神科医が研究の足跡を振り返るとき—」「統合失調症が秘密の扉をあけるまで」(いずれも星和書店)がある。
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1母の記憶
Q.お母さんが発病されたのはいつ頃でしょうか

「母は昭和11年(1936年)生まれです。専業主婦でした。父と結婚する前に、親戚が運営する学校法人を少し手伝っていたという話は聞いたことがあります。居住形態は、当時は父と私と母でした。

あとで分かったことなのですが、僕が生まれた直後に発症したらしいのです。(僕が)5歳までは、入退院をしていたらしいことはあとで分かります。あとでと言うか…、昨年(2013年)分かったのですけれども。それまではもう長く糸川家では母のことはまったくタブーとして語られることがなく、僕自身、父の姉と父の母、女2人が住んでいた実家に引き取られて育てられました。ですから5歳から、ずっと母と会っていません。」

Q.お父さんの実家に引き取られてからの生活は?

「(父の実家に)引き取られてきて、祖母がリウマチで寝たきりでした。父の6人兄弟姉妹が同じ横丁に6軒、軒を連ねるような実家だったので、リウマチの祖母をお風呂に入れに来たり、晩御飯を作りに来たり…、叔母がですね、それも叔父のもとへ嫁いで来た外叔母と、それから父の妹である叔母が、もう入れ替わり立ち替わり入って。それからその叔母達の子ども、つまりいとこが4人いたものですから、大家族のような感じで、母と別れたことは5歳でよく分かっていなかったのですが、特に寂しいという気持ちになったことはありません。

ただ、困ったのは、母のことを口にすると、叔父や叔母が非常に困った顔をするので、徐々に母のことを話すことを、幼いながらにもためらうようになりました。そのうち、小学校に入るあたりから、母は死んだか、離婚したか、そんなことで、叔父や叔母は困った顔をするのだろうと思うようになりました。

で、中学生ぐらいから、リウマチの祖母の存在もあったし、まあ、医者に憧れるようになって、何か、患者さんを治すような職業に就きたいなと思って話したところ、父はたいへん喜びました。うちは祖父も父も叔父も、銀行一族で、理系は僕一人という、初めての医者だったのですが…。私立の医科大学に入りました。」

Q.お母さんの病気のことを知ったきっかけとその時の気持ちを教えてください

「(医科大学に)受かった時に、入学手続きに戸籍謄本(とうほん)が必要になったので取り寄せたところ、父の横に、母の“みゆき”という名前が書いてあって…、要するに死亡していないわけですね、それから離婚もしていないわけです。その時初めて、長年の謎がこう甦ってきたと言うか…、『なんで叔父や叔母は困った顔をするんだろうか』と。

で、非常に家の中をいろいろ漁ったらば、父の弟の日記帳が出てきたのですね。そこに走り書きのような形で、母がどうやら“分裂病”という文字が見つかって……。高校の授業でもそういうことを教えませんから、何かとんでもない病気だったらしいなということだけは分かりました。

で、医学部に入りまして、たいへん苦しい思いをしました。というのは、今から30年前の医学部の講義では、まあ(精神)分裂病ですね、当時は(2002年に統合失調症と名称が変更)、慢性に進行して最後は廃人になる病気だというふうに教えられました。さまざまな症状も聞きましたが、たいへん恐ろしい病気であると。

そのうちですね、脳裏に幼い頃の記憶が少し甦るのですね。たぶん4歳か、ぎりぎり記憶が残る時なのですが…。母が非常に激しく父を怒っていて、そのうちに飼っていた犬の鎖で、母が父に殴りかかって、父がサッと私を抱き上げて、避難させる形でタンスの上へ私をパッと置いたのです。で、高いところから僕は見下ろすと、額から血を流した父が、母を馬乗りになって押さえつけているのを、4歳か5歳だと思うのですけど、それをハッと思い出しまして、『ああ、母は精神疾患に罹患していたんだ』ということを、その時、ようやく分かりました。

実は、(大学)入学の時に、戸籍を見て母が生きていると知った時に、一目母に会いたいと思ったのですが、そういう講義、授業を聞くにつれて恐ろしくなりまして、変わり果てた母の姿を見たくないとか。あるいは、当時授業では、遺伝について講義を受けると、『かなり遺伝性があるんだ』みたいなことを言われて…。今、私が遺伝子の研究をやっていますので、糖尿病や高血圧と比べて、格別に遺伝性が高いという事実はないのですが、当時医学生として聞いた時には非常にショックで、自分も罹患危険年齢ですから、『いつか自分が発症するのではないか』ということで怯えました。

迷っているうちに、30歳で、医学部の同級生だった現在の妻、内科医なのですが、と結婚しまして、孫が生まれました。で、長男が生まれた時に、『どこかに入院している母に、孫を見せてあげたいなあ』と思ったのですが…。ま、30(歳を)過ぎたので、自分が発症する危険性はぐっと下がったので、そちらの不安はなくなったのですが、やはり、日常、20年以上前の、古い精神科の病院で診療していた時の、慢性期の方達の痛々しい姿を見ていましたので、母のそういう姿を見たくないという気持ちもあって、結局、迷ったままでした。」

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