統合失調症と向き合う

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糸川昌成さん
糸川昌成さん
(いとかわ まさなり)
精神科医・分子生物学者。東京都医学総合研究所に精神行動医学研究分野「統合失調症・うつ病プロジェクト」プロジェクトリーダーとして勤務している。1961年(昭和36年)生まれ。母親が病気体験者。分子生物学者として研究に従事しており、週に1度精神科病院で診療を行っている。妻、息子2人、娘1人の5人暮らし。著書に「臨床家がなぜ研究をするのか—精神科医が研究の足跡を振り返るとき—」「統合失調症が秘密の扉をあけるまで」(いずれも星和書店)がある。
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3母の足跡を追う
Q.お母さんの病歴などを調べられたそうですが

「昨年(2013年)になります。夏苅先生とメールでその後ずっと交流が続いていたのですが、『母調べをしている』ということがメールにあってですね。なんだろう“母調べ”と思ったら、夏苅先生が、実はお母さんのことを何も知らないと。自分が死んでしまったら自分の子ども達ももちろん知らないわけで、ということで、お母さんのカルテを取り寄せて調べたという。

これは僕もすべきだと思いました。亡くなって14年経っていたので、病院はきっとびっくりするだろうなと思ったので、私が前に勤めていた病院が、母の亡くなった病院と同じ市内ですので、院長に頼みました。そしたら、ちょうど直前に母の入院していた病院の院長が交代したばかりで、私の勤めていた病院の院長は、顔見知りではないと言うのです。

そこでケースワーカーのチャンネルを通して、カルテの開示をしてくれないかと。糸川みゆきさんの長男が開示の請求をしていると。『5年の法律で決められた保存期間を過ぎているので、カルテを発見できない可能性が高いと言われた』と、ケースワーカーを通じて言われました。

そこで、ケースワーカーの名前で私は手紙を書きました。『糸川という医者は前に私達の病院に勤めていたと。お母さんとこういう事情があって、生きて2度と会うことができなかった人で、科学者でもあり、非常に公平な人間で、何か訴訟を起こそうとしているわけではなくて、そういう個人史の問題で見たいと言っているんだ』という手紙を、その病院のケースワーカーの名前で出しました。

そうしましたら、『カルテは発見されたので、どうぞ見にいらっしゃい』ということで、私は見に行きました。で、カルテを見るまで、ま、ドキドキしました。というのは、どこかで、母は精神病ではなかったのではないかなとかいろいろ考えたのですね。でも、カルテを見ましたら、“(精神)分裂病”としっかり書いてありました。

(カルテを)見ますと当時の症状が書いてありました。私を産んですぐ、父の背広と鞄をハサミでズタズタに切ってしまう。それから、父のこうもり傘が人の目に刺さって危ないから、私の折りたたみ傘を持っていけ。とてもそんな赤い女物の傘なんて持っていけないと父は困ったと。それから、突然、母がいなくなってみんなが驚いたらば、私を連れて北海道の実家に帰っていたということがあると。こういうのが当時の異常所見として、カルテに点々と記載されていたのです。」

Q.カルテに書かれた内容を見て、どう思われましたか

「私はそれを見た瞬間に、『これ、異常所見かなあ』と疑問が湧きました。つまり、北海道の田舎からたった一人で嫁いできて、父の兄弟姉妹が6軒並ぶような家に、最初に長男の嫁として嫁いできたわけです。非常に強い緊張感の中で私を産んだはずだと思います。

で、まあ、産後不安定になる人は多いです。よく見ます。ま、母もたぶんそうだったのだと。そういう時に、夫にそばにいてほしいとみんな思うので…。ところが、昭和36年です。まあ、高度経済成長期よりちょっと前ですけども、当時からやはり銀行員というのは非常に多忙で、早朝から深夜まで家を空けることが多かった。その父に近くにいてもらおうと思ったら、鞄と背広がなかったら、会社に行けないだろうと。

それから、せめて、そばにいてくれないのだったら、職場へ私のこうもり傘を持っていって思い出してくれと思ったから、母の赤い折りたたみ傘を渡したのではないか。あるいは、家が6軒、父の兄弟姉妹(の家)が並んでいるところで窮屈だったので、北海道へ帰りたかったというのは、ちっとも異常な行動ではないし、ましてや0歳の私を連れていったという時点で置き去りにしたわけではないわけですから、十分正常な行動だったと思います。

で、こういった症状の意味、文脈というか、そういうものを分かってもらえる、汲んでもらえた時に、患者さんというのは、いちばん心が快方に向かうのだろうと僕は思います。もちろん、当時の精神科医がダメだったとは思っていませんので、詳細に見れば、幻聴が聞こえていたり、了解不能な被害妄想があったりしたのだろうとは思いますが、症状全体にそういう文脈があるということを、僕はカルテを読んでパッと思ったのです。で、それが、主治医なり夫に理解されたならば、どれほど母は救われただろうと思います。

もう1つカルテを見て思ったことがありました。僕は父との間に独特の緊張関係があります。つまり、母を病院に入れたままにして、外泊も(させず)面会にも行かず、ついに退院できないまま亡くなったというのは、父のせいだと思っていたところがありました。

ところが、カルテにはなんと父が4回入退院をさせていたことが分かりました。母が発症した時、母が26歳、父は33歳です。52歳の今の僕から見れば非常に若い夫婦です。で、50年前、まだ統合失調症が(精神)分裂病という名前で呼ばれていた時、特に銀行員の父が、非常に会社に知れるのを怖がっただろうと思います。信用第一の金融機関ということで、50年前の銀行というのは非常に厳しいものだったと思います。社会全体も厳しかったと…。

その中で、4回も退院をさせてなんとか父は頑張って、その若い夫婦が、0歳の子どもを抱えながら、暴れる母に翻弄されて、徐々に社会の中で追い詰められていった過程を、カルテを読んでいて感じました。

そこで、父は(今)85歳なのですが、ようやく(私と)父との緊張関係が緩んだというか、『ああ、父も被害者だったんだ』と。『父も頑張ったけれども、かなわなかったんだ』ということが、初めて分かったのです。」

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