統合失調症と向き合う

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糸川昌成さん
糸川昌成さん
(いとかわ まさなり)
精神科医・分子生物学者。東京都医学総合研究所に精神行動医学研究分野「統合失調症・うつ病プロジェクト」プロジェクトリーダーとして勤務している。1961年(昭和36年)生まれ。母親が病気体験者。分子生物学者として研究に従事しており、週に1度精神科病院で診療を行っている。妻、息子2人、娘1人の5人暮らし。著書に「臨床家がなぜ研究をするのか—精神科医が研究の足跡を振り返るとき—」「統合失調症が秘密の扉をあけるまで」(いずれも星和書店)がある。
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5母方の家族と会う
Q.伯母さんとお母さんのいとこに会った感想は?

「約束の日、約束した駅前、改札口に、非常に上品なシニアのご夫人がお二人いらっしゃいました。お二人は決して解剖学的に似ていないのですが、お二人の間にある共通するものがあり、お二人の隣に母を並べた時に、それがなんであるかが気づく形で、よく似た方でした。で、母には渡せなかったカーネーションの花束を買って、お二人に渡しました。

そして、お二人とともに、母のいとこの家で、母の想い出話をいっぱい聞きました。いろんなことが分かりました。母と母の姉の二人を産んで、母の母は、病気で亡くなってしまったそうです。で、母の父は、2番目のお母さんを娶(めと)るために、母の実母の写真をすべて処分してしまったそうです。で、母と母の姉は、その実母を知りたくて仕方がなかったらしいです。

で、2番目の母親との間に、弟が生まれたそうです。ところがその2番目の母親も亡くなってしまい、3番目のお母さんが来たそうです。で、まあ、母方のその連れ子がいる家へ嫁いで来た3番目のお母さんとの間に、家庭内で緊張関係があったそうです。で、母の姉は、逃れるように親戚の家へ行ったそうです。

その時、母の姉が言っていました。『私があの時みゆきちゃんを置いて、親戚の家に行ったばかりに、弟を守って、たった一人で思春期に、みゆきちゃんは3番目のお母さんとの緊張関係の家庭を耐えたのよ』と。『ああいうことがなければ、みゆきちゃんはああいう病気にならなかったのかもしれない』と、悔やまれていました。

で、ある時、母の父親が、数日間出張でいない日を見計らって、母と母の姉はいろいろ調べた結果、北海道に実母の親戚がいることが判明し、二人で思い立ってその家を訪ねたそうです。で、非常に実母の一族から歓迎され、それがきっかけで、母は高校を卒業すると、実母の親戚を頼って上京します。

東京へ来て、その実母の親戚の家で、先ほど申し上げた学校法人の手伝いをしていた時に、見合い結婚をしようということで、父と見合い結婚をして、我が家の糸川家に入ってきたわけです。すなわち、母というのは、実母を幼い時に亡くして、ま、非常に実母を求めて旅をして、そして親戚の家に愛情を求めて来て、そしてやっと夫と(の)、家へ嫁いだのだけども不安定になったわけです。で、聞いたところやはり私を連れて帰ったことがあったとカルテに書いてあった通りで、帰ったのだけれども、やはり3番目のお母さんとの緊張関係が続いていて、そこにも居場所がなくて、また東京へ戻って来て、どんどん症状を悪化させていったようでした。

あとですね、カルテの外泊記録のところに、昭和54年と書いてあったのですが、私の東京の実家へ母を、母のいとこが連れて行ったと書いてあったのです。その時にハッと思い出したことがありました。その93歳でなくなった叔母が、私が30歳過ぎた頃に、叔母との間では母とのことを少しずつ語り合うようになったのです。

その時に『あなたのお母さんは1度だけあなたに会いに来たことがある』と言われたのです。あなたが高校生の時に、お母さんがこの家に訪ねて来て、会いたいと言うので、私はお母さんを2階のあなたの部屋へ連れて行ったのだと。そしたら高校生で、部活か何かで疲れていたのか、僕は寝ていたそうです。で、叔母が起こそうとしたら、母が『起こさなくていい』と言って、私の寝顔だけを見て帰っていったそうです。

だから、私は、生きて2度と会うことはできない(できなかった)と思っていたのですが、高校生の時に、僕は1回だけ母に会っていたということを、カルテ上から知りました。そして叔母からそういうことを聞かされていたことを思い出しました。」

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