統合失調症と向き合う

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糸川昌成さん
糸川昌成さん
(いとかわ まさなり)
精神科医・分子生物学者。東京都医学総合研究所に精神行動医学研究分野「統合失調症・うつ病プロジェクト」プロジェクトリーダーとして勤務している。1961年(昭和36年)生まれ。母親が病気体験者。分子生物学者として研究に従事しており、週に1度精神科病院で診療を行っている。妻、息子2人、娘1人の5人暮らし。著書に「臨床家がなぜ研究をするのか—精神科医が研究の足跡を振り返るとき—」「統合失調症が秘密の扉をあけるまで」(いずれも星和書店)がある。
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2母と会う
Q.お母さんと会うことになった経緯を教えてください

「36歳から38歳まで留学をしまして、で、帰国して、理化学研究所に勤めて、週1日ですが、精神科の施設で当直のバイトをしていた時、2月2日(2000年)の朝でした。当直室に早朝電話が鳴って…、叔父からでした。で、『お前のお母さんが亡くなったよ』と聞いて、『ああ、ついに間に合わなかったか』と思いました。

で、母の遺体を引き取りに行って、驚きました。なんと私の勤めていた病院と同じ市内にあって、車で20分程で行ける、よく知った病院でした。こんな近くにいて、なんで会わなかったんだろうということで、悔しさと後悔で胸が張り裂けそうでした。

非常に雪が降ったあとで寒い日だったのですが、息子と、当時7歳だったかな、それから、1歳の次男と妻と私で遺体を引きとりに行きました。霊安室で、棺(ひつぎ)の中を、子どもを抱き上げて、『お前のおばあちゃんだよ』、『パパのお母さんだ』ということを息子達に見せました。その時になぜか糸川家で長く語ることが憚(はばか)られていた母が、ようやく息子達夫婦と孫に認められて、語ってもいい存在になったような気がして、ちょっと報われた気はしましたが、依然として、『なんで会わなかったのか』という後悔は強くなりました。

当時、理化学研究所で、深夜まで研究に没頭しました。母に対する贖罪(しょくざい)のような気持ちがあったような気がします。科学的にこういうことが解明できないから、人に語ってはいけないというスティグマができるので、脳のこういった変化で起きる、純粋に脳という臓器の病気であるということを解明すれば、こんなに苦しまなくて済むと。母のような悲劇を生まないためには研究をして、この病気の原因を解明するしかないと。ある時、36時間ぶっ続けで研究をして、その日の朝、朦朧(もうろう)としていたのでしょうね、アキレス腱を切るという事故を起こしたり…。まあ、ほんとに今から考えれば、自傷行為に近いような研究生活をしました。」

Q.タブーだったお母さんのことを公表しようと思われたのはなぜですか

「なんとか、母に認めてもらいたいというような研究生活は、10年ほど続いたのですが、ま、いくつか、科学的な発見ができて、臨床試験をやるという段階までこぎ着けたりということで…。50歳になった時に、東京都の研究所ですので、定年まであと10年。このがむしゃらな研究生活をあと10年続けて自分の人生が終わっていいのかなあと思った時に、中村ユキさんの『わが家の母はビョーキです』(サンマーク出版)という本を見て、びっくりしまして、『あ、これだな』と。僕が、科学者として生き続けるだけではなくて、僕にしかできない仕事というのは、母のことを語ることではないかと思いました。

相前後して、精神科の専門雑誌を読んでいたら、ある症例報告が載っていたのです。読みますと、夏苅郁子先生が、ご自身の母との体験を綴ったもので、症例報告で、たいへん過酷な幼少期を克服していく過程が書かれていて、私、胸がいっぱいになりまして…。

同じ精神科医が、自分自身を症例報告という形で、精神科の専門雑誌に投稿して発表したということで、(夏苅先生に)お手紙を書きました。そうしましたら、非常に丁寧なお返事が届きまして。私が手紙の中で、『生きているうちに母に会わなかった後悔』と書いた部分を指して、夏苅先生が、『生きているうちに会えても後悔することがある』という一文を返してくださいまして、私はドキッとしました。

私は母に会えなかった空白を埋めるために人生を投げ打ってきたのだけれども、会ったために、やはり人生を投げ打つような苦しみを感じた人が、夏苅先生という方がいらっしゃるということで、結局は、僕には僕の人生しか歩めなかったと。母に会えない人生だったのだけれども、母に会えて苦しんだ夏苅先生と、会えなくて苦しんだ僕との間に、何か共通点があったような気がしました。

それで、ちょうど2年前ですかね。ある出版社の企画で、中村ユキさんと夏苅先生と私と3人で座談会をやるという企画があって、非常に私は喜んで応じました。

実はその座談会の日の朝、私を母から引きとって母親代わりで育ててくれた叔母が93歳で、その日の朝亡くなりまして。ま、そのタイミングでというか、その偶然に僕も驚いたのですが。夏苅先生と中村ユキさんは非常に心配してくださったのですが、こういう日だからこそ、お二方に巡り会えたのかなと。で、私を育ててくれた叔母と、私が(を)育てられなかった母の話をたくさんしました。実に7時間にわたって話が尽きませんでした。

その1週間後に、ちょうど祖母の33回忌と母の13回忌と、それから、亡くなったばかりの叔母の二七日(ふたなのか)というのがあったんですね。で、その合同法要を聞いていた時に、非常に、私は科学者なのでこういうことを言ったらおかしいのですが、読経を聞いていたら、その瞬間この同じ場に、僕を育てられなかった母の魂と、僕を育ててくれた祖母と叔母が3人一緒にいるという、そういう強い実感みたいなものが湧いてきたのです。

それは、非常に温かなもので、私という子どもを、この3人の女性が温かく見守ってくれている感じで、やっと母に許してもらえたかなという気がいたしました。

その日を境にと言っていいのかな、そのあたりから、私は、まともな生活をするようになりました。夜は、子どもが寝つく前に帰って、子ども達と夕食を取り、それから、僕は、ずっと夏休みを分散して取っていたのです。5日間夏休みをもらえるのですが、毎週1日ずつ5回取るとかそんなことで、連続して取ったことがなかったのですが、初めて1週間、5日間まとめて取って、娘と妻とハワイへ行きましてね。ほんとに、結婚して以来の穏やかな一家団欒を迎えることができました。」

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