統合失調症と向き合う

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糸川昌成さん
糸川昌成さん
(いとかわ まさなり)
精神科医・分子生物学者。東京都医学総合研究所に精神行動医学研究分野「統合失調症・うつ病プロジェクト」プロジェクトリーダーとして勤務している。1961年(昭和36年)生まれ。母親が病気体験者。分子生物学者として研究に従事しており、週に1度精神科病院で診療を行っている。妻、息子2人、娘1人の5人暮らし。著書に「臨床家がなぜ研究をするのか—精神科医が研究の足跡を振り返るとき—」「統合失調症が秘密の扉をあけるまで」(いずれも星和書店)がある。
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4母方の家族の存在
Q.カルテから病状以外に得た情報はありましたか

「実はそのカルテには、知らない電話番号が書いてありまして。母が外泊したという外泊先なのです。誰だろうと思って、勇気をふりしぼって電話をしてみました。で、『私が糸川みゆきの息子ですけども』と言ったら、相手はびっくりしていてですね。聞いたら、母のいとこだったのです。で、母は生きて2度と糸川家の敷居をまたぐことができなかったのですが、たった1度だけ外泊した先が、母のいとこだったのです。驚いてそのいとこからいろんなことを聞きました、母のこと。

母に姉がいるということを聞きました。びっくりして、それで、お願いしたら、いったん電話を切って連絡をしてくださって、母の姉の携帯の電話番号を教えてくださいました。まあ、ご主人にもお子さんにも母の姉は、母のことを隠しているので、固定電話には電話をしないでほしいという話でした。ああ、やっぱり50年経ってもこの病気というのは、公にできない深刻な病なのだなということを、その時、改めて感じました。

それで、その母の姉に電話をしてみました。80歳近い方だと思うのですが、声を聞いた時に、初めて聞いたような気がしないのですね。非常に、私のことを心配してくださって。その時初めて『みゆきちゃん、みゆきちゃん』という言葉を聞いてびっくりしました。『ああ、そうなんだ。母は、みゆきちゃんと呼ばれていたんだ』と。糸川家でそういうふうに呼ばれたことは一度もありませんので、生まれて初めて聞く母の愛称でした。

その時、母に弟がいたということも初めて知りました。それでハッと僕は思ったのです。幼い時から、自分の脳裏にいつもベランダに腰掛けてギターを弾きながら、『バラが咲いた♪』を歌う若い男性の像が、時々頭に浮かぶのです。父の弟、叔父達とは違う。一体誰なんだろう?というのが、50年間謎だったのですが、あれはきっと母の弟だったのだと思いました。

で、何度か、(母の姉に)電話をかけて、母の話を伺うことができました。そしたら、ある時その母の姉が、弟へ連絡を取ってくれたらば、『そのギターを持って歌ったのは私です』と。母が発症して、状態がひどい時に、弟が心配して、父と母と私の家に同居した時期があったそうです。その時に、『バラが咲いた』を替え歌で歌ったと言っていたと、そのお姉さんから聞いて、50年ぶりにハッと思い出したのです。『まさなりくんちに咲いた♪』っていう歌詞が浮かんできて、ああ、そうだ、まさにあの歌だと思いました。ただ、母の弟もご家族には母のことを伏せているそうで、まあ、電話は勘弁してくださいということで、お声を聞くことはできませんでした。」

Q.お母さん方のご家族とは会われましたか

「昨年(2013年)の12月だったのですが、母の墓参りをしようという提案を、母の姉と母(方)のおば(実際は母のいとこ)にしました。ところが、母の姉は非常に困惑されてですね、固辞されました。固定電話ではない、携帯電話には電話を許してもらえたのだけども、墓参りはできないということでした。僕はその時初めて母の姉に会えるかなあと思っていたのですが、会うことも叶わない。で、弟さんにも電話ができないということで……。

(その時)妻の言葉を思い出したのです。私が母のことを、本を書いてその最後に母の病気のことを公表したのですが、妻が必ずしも賛成ではなかったのです。3人の子どもがいる。特に7歳の娘がいます。妻の言葉ですが、あなたは、精神障害者のためにという、こう立派な覚悟があるのかもしれない。その“立派に”というのは、まあ、とても、何か…素直な意味ではない“立派に”という言い方でしたけども。で、『親の立派な覚悟のお陰で、子ども達まで犠牲にしていいの?』というふうに言われたのです。

母の姉にも会えない、弟にも会えない、墓参りもできない。そして、僕が公表したことは間違っていたかもしれないという中で、非常に僕は具合が悪くなりました。食欲は落ちますし、免疫力が低下して、しょっちゅう微熱が出るようになる。ある時は、解熱剤を飲みながら、岡山まで家族会の講演に出かけてフラフラになって帰ってくるようなことがありました。

非常に辛くて、おそらく、DSMの基準で言うと、大うつ病の基準を満たしていたと思うのですが。」

DSM:精神障害の診断と統計の手引きDiagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders。2013年にDSM-5が発表されている。

Q.“うつ状態”をどのようにして乗り切ったのでしょうか

「これは抗うつ薬を飲んでも治らないな。あるいは抗うつ薬を飲むことで、うつ状態は軽くなるだろうけれど、僕自身の魂は蘇えらないなと思いまして、夏苅先生に相談のメールをしました。そしたら、すぐお返事がきて、2つのことを言ってくれました。

1つは、糸川先生、急ぎすぎですと。相手があることです。50年の空白を、映画の逆回しではないのだから。急ぎすぎです。もう少しゆっくりしましょうということを言われました。

もう1つ言われました。これが非常に僕を救ったのですが、親には子どもを守る義務があると。ただ、何が守ることになるのかは、とても難しいのですということを言われたのですね。

ハッとしました。そうか、僕は、息子や娘を守る義務があると。守らなければいけないと。来る日も来る日も、何が子ども達を守ってやれることだろうかと考えました。

で、ある時フッと分かったのですね。僕が隠し続けることで子ども達を守ったとすると、娘もその秘密を抱えながら、いつ旦那さんに私のおばあちゃまは統合失調症だったのよということがばれるのだろうかとびくびくしながら、娘も嫁ぐのだろうと思ったのです。そして、娘の娘もまた同じように、自分の家系にはこういう人がいたんだということを知られたらどうしようと思いながら、それが代々(受け)継がれていくのだろうと思った時に、この秘密は、僕の代で断ち切らなければいけないと。それが子どもを守ることになるのだということを、僕は確信しました。

そこで、ま、妻にはそういう説明をして、今日もこの『JPOP-VOICE』に出ることにしたわけです。

ですから、私達の息子や、特に妻が心配した娘はですね、私がこういうことを公表した以上、娘の祖母が統合失調症だったということを知った上で、おつき合いしてくれる方とだけ、おつき合いするでしょうし、妻が心配した、結婚できなくなるということは、僕はないと思います。そういうことが分かった上で、娘と結婚したいと思ってくれる人が来てくれれば、それがいちばん幸せであり、娘を守ってやったことになると、僕は思っています。

で、夏苅先生の勧めを守りまして、年末年始はおとなしくしていました。で、年が明けて、僕、年賀状を送って…、母方の伯母達にですね。そうしたところ、母のいとこが、『みゆきちゃんの古い写真が出てきたから、私ももう80(歳)近くて身辺整理をしているから、もしよかったらもらってくれないか』と言われたので、僕は大喜びしまして、初めて母が外泊したはずの母のいとこの家を訪ねることにしました。

(そう決まった)1週間後に電話がかかってきて、約束の日に、母の姉も来てくれるという。もう僕は舞い上がるように喜びました。会えないと思った母の姉さんにも会える、そして母が外泊した家にも行けるということで、見事に私のうつ状態は治りました。」

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