「出会いは、ほんとに事故のように突然来ます。それが、年がいくつだからもう間に合わないとか、そういうのじゃなくて。私も彼と出会ったのが39歳で、子どもを産んだのも39歳です。だからほんとにいつ来るか分からない出会いをアンテナ立てていれば絶対きくことになると思うから頑張ってくださいって言いたいですね。」
「私の場合、講演会活動ですね、大きいのは。結局は、2008年の2月にあった精神福祉保健セミナーで、私、体験発表をやっているんですよ。その時に“精神障害者の恋愛結婚出産、あ、妊娠出産育児”という話をしたんですけど、それが私にしてみれば、体験発表の初めてで、以降、年3回ぐらいの体験発表とか講演会を任されるようになって。そこで自分の言いたいことを言って周りの人達を笑わせて、それで帰ってくるっていうのが、こんな病気を持っている自分でも役に立ってるんだっていう思いになって。そのへんですかね。」
「自己流じゃなくて、ほんとに家族会に入ってほしかったんですよ、私としては。でもその当時、当時っていうのか3人目のドクターが、(私が)母に『家族会に入ってほしいんですけど』という話をドクターのいる前でしたら、『あんなものは、危険な思想を持っている人間が集まるところだから入らないほうがいい』とかそういう言われ方をしまして。『ああ、そうなんだ』っていう具合になっちゃって母のほうも。できればほんと家族会とかに入って勉強してほしいなと思ったんだけど、その道も閉ざされてしまったし。」
「なんにも期待してないですね。ドクターはねえ、もう何にも期待はしませんね、はっきり言って。
ただ私が出産した時に、まあ看護師さんなんですけど、『やったじゃん!和田さん』という一言を言いたいがためにわざわざ来てくださった方とかがいて…。
あと、私が強制入院でとっつかまって保護室に入っていた時に、食事を全部運んでくれるんですよ、保護室の中に。その時に1人の看護師さんが、『和田さんはごはんをきれいに食べてくれるからうれしいよね』と声をかけてくれて、それが逆に私のほうもうれしくって…。
あとは、私、日記を書いているんですよね。それで強制入院で保護室に入っていた時は、『あなたに鉛筆を渡したら、ばーっと書いちゃうでしょ。それがあるから(鉛筆を)渡せないのよ』と言われたんだけど、その時に、たまたま私が『日記を書きたい、書きたい』と思っていたので、ある日、その(保護室に)食事を運んでくれた看護師さんに、じつは私、書いちゃダメって言われているから、その時措置入院の説明を書いた紙をもらっていて、裏の紙がまっ白だったんですよ。で、『私、書いちゃダメと言われているので、もし嫌じゃなければ、私がこれから言うことを書いてほしいんですけど』と頼んだら、『そのくらいいいわよ』と、鉛筆を貸してくれる看護師さんが出てきて…。私の日記が、10日間ぐらい止まっていたんですけど、そのあたりから復活し出して。そのあと、どれぐらい経ってからかな、個室になってからかな、日記が再開できたんですよ。」