「私は日本オストミー協会で10年ちょっと幹事をしているんですけれども、同じ仲間の幹事の方が、再発・転移で何人かお亡くなりになっているとか、相談に来られた方が亡くなっているとか、そういうのがあるんですよ。
そういうことをずっと経験していますと、なんだか自分も開き直ったみたいな感じになってきて、もちろん再発・転移の怯えや恐怖心はありますけども、自分がそうなった時にはやせ我慢というか、案外平気なような取り繕いができるんじゃないかなと思ったりします。
子供の頃から『死というのはなんだろう』という恐怖心はずっと感じられていましたけども、人が解決できることじゃないですからね。恐怖心はあるわけですけども、それがこのがんになって、いろんなことを体験している方を見てると、ちょっと開き直ったというか、『そんなに(死のことを)思わなくてもいいんじゃないか』というふうな気持ちになってきました。」
「私は子供の時から、浄土真宗の親鸞さんのお仏壇で、おばあさんの後ろに座ってお経を読んだりしていました。それから(興味は)始まっているんですけども、たとえば親鸞のことは、丹羽文雄が書いている、吉川英治が書いている、そうした伝記小説を読んでみたり。最近ですと五木寛之さんですかね。いろんな方が書いているそういう小説は、面白いから読むんです。宗教書は読まないですけど。
たとえば迷信を絶対信じるなとか、自分が死んだあと自分のことを絶対に拝むなとか、偶像崇拝するなとか、墓を建てるなとか、そういうのは非常に共鳴できる。なんかの時に勉強したいなと思っているんですね。」
「たとえばうちのものから言われますけど、ウォーキングに行って資料やパンフレットを全部ためて、何冊にもファイルしたものがいっぱいあるから、『そろそろ整理してくださいよ』と言われるけど、そんな気はにはならなかったり。捨てるときはもう惜しげもなくスパッと捨てるんですけども、いわゆる身辺を整理するとか、そんな気はなくて。どない言うたらいいんですかね。その時が来たらそれで終わりなんやから、今のあるまま全部ごみで処理してくれたらいいんやし。
これは(家族に)言ってるんですけど、たとえば病気で亡くなるじゃないですか。そうするとそのまま葬儀なしに焼き場に行ってすぐ焼いてもらって、それを砕いて粉にして海でも山でも撒いてもらって、何もさっぱり無しというね。体が滅びたらもう全く何もなかった。別に葬式も何もしてもらいたくないというか、それを人に言ってみたりね。死んでもうたら何もなくなるような格好にしてほしいと思っています。もちろん墓もいらないですしね。
ご先祖様の墓があったとしても、それもせいぜい御影石でピカピカに磨いて墓をしたてても、100年、200年経ってくるとだんだんザラザラなってきて、最後はもう無になっていくわけですから。土に還るわけですから。もうはじめからそれでいいと思うわけですね。そういう時間の無駄といいますか、そういうことはしたくない。結局それを言うと、子供は『つまらない』と言うわけですね。『お父さんが亡くなって、形に残るものが全くなかったら、どないして生きてったらいいの』とか、『思い出すよすががない』とか、そんなこと言ってますけどね。」
「たとえば親鸞の小説を読んでみたり、親鸞の生き方や考え方に共鳴したり、八十八箇所を回った時に『お大師さん、お大師さん』と自分で言うたりしてる。それはそれで好きなんですけども、それと自分が信心するということとはまた別なんです。ですから、もっと時間があったら学問的にそういうことを調べてみたいという知識欲はあるんですけども、宗教を信じようとかそういう気は全くないです。
正月には必ず初詣で近所の神社お参りに行くんですけどね、それでちょっと敬虔な気持ちになるんですけども、そんなところでしょうかね。
神社にお参りするときにできるだけ努めているのは、そのお参りをする瞬間だけでも無になりたいというか、『全く何も考えない時間がほしい』というように思いながらお参りするんですけど、なかなかそうはならないですよね。何か考え事をしながら、何か周りのものが聞こえていたりね。ですから『無になる』ということはできないかもしれないけど、とにかく『何も考えないで、ただ手を合わすという時間がほしい』という、そういう気持ちでお参りしているんです。」