「1996年です。私が51歳の時ですかね。堺市の泉北ニュータウン地区に(堺で)6番目の作業所ができたんです。これも妻が、病院のケースワーカーから『こんな所があるよ、行ってみたら?』と聞いて行ったんです。そこで、先程言った、私の場合、入院経験がないでしょ? だから、同じような病気をもっている仲間と出会う機会というのが、まったくなかったんですよ。主治医の先生も敵だと思っているから、ろくすっぽ本当のことも何もしゃべらないしね。
その作業所に行った時に、仲間のテーマミーティングとかいうのがあって、自分の病気の話とかをするような案があったんですよ。それで仲間の話を聞くと、自分のことは本当にリアルに物が見えたり聞こえたりするから、本当のことだと思っていたんです。妄想じゃなくてね。ところが人の話を聞くと、『あれっ、それは妄想と違うの?』と思えたんです。『人のふり見て我ふり直す』という言葉があるでしょ?それで、『あっ、自分も病気だったのかなぁ』と…。
それまでは、自分だけが特別な存在だと思っていたんですよね。何しろ、延べ人数にしたら何万人というエキストラが、私の周りに来ているように思っているからね。よほど自分は何かと思ってね。私がまず推理したのは、私はモルモットにされているんだと。人間の感情とか思考とかいろんな(ことを)調べるためにね。血圧まで含めてモルモットにされている。そのモルモットの費用が、年間1億円もかかるようなものだと、そういうふうに自分を特別視していたんですよね。ところがそれは特別じゃなくて、やっぱり他の人も似たような経験があるんですよね。(人の)話を聞いていると、やっぱり『妄想(と)違うかな』と思えたんですね。そこで、『ああ、自分も病気だったのかな』と思ったんです。」
「変わるものです。まず、病気だと分かっていない時というのは、やっぱり薬の飲み方にしても飲んだり飲まなかったりでしょ? 先生の言うことも聞かなかったでしょ? 先生とまともに話しをするつもりもなかったしという感じでね。(それが)薬の飲み方も、ちゃんと飲まないといけないと思うようになって飲むようになったし、休養とか睡眠とかもきちんと取らないといけないとか、そんなふうに思えるようになったんですね。
また別のアルコール(依存症)専門病院に、妻が連れて行ってくれたんです。妻にとっては、私、統合失調症だったけれども暴力を振るったりすることはなかったんですね。むしろ困っていたのが、深酒をした時に幻聴との距離が取れなくて、幻聴に対してムキになって大声を張りあげるんです。それが電車の中、人混みの中、家に帰って自宅の部屋でも、寝るまで、大声で幻聴とやりあっている。それが、『もう隣近所に恥ずかしくて、住めないじゃないの』と、妻は困っていたんですね。
そこで、別のアルコール(依存症)専門病院へ行ったら、『あなたは問題のあるアルコール依存症です』と診断されて、それで、1年半ぐらい…、毎日通院は数か月ぐらいで、そのあとはちょこちょこですけど行くんです。まぁ1年半、病院と繋がって。1996年の7月31日にアルコール(依存症)専門病院に繋がって、9月に断酒会に入ったんです。それから、酒をもう止めるというか、酒を飲んで幻聴との距離が取れなくて大声を張りあげることがまったくなくなったんです。
これも私の推論でしかないのですけどね。幻聴が聞こえてきて、その幻聴とまたやり合う。すると、その幻聴との回路、神経の回路が太くなっていくというか。逆に、『もう幻聴だし病気だし』と思ったら、あんまりやり合わなくなる。そうすると、そういう回路が細くなっていったというのか、そういう感じがしますね。だから、今は、時々、『ムニュムニュ何か言っているな』という感じにしか聞こえなくなりましたね。」