統合失調症と向き合う

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薄羽正明さん
薄羽正明さん
(うすば まさあき)
1967年(昭和42年)の43歳(収録時)。両親と同居。大学卒業後、就職したが、23歳の時に発病。症状により退職、再就職を繰り返す。現在は、就労支援サービスを受けながら、就職活動を続けている。
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73度目の退院後の生活
Q.退院後、通院先は変わりましたか

「(入院は)数か月です。ある程度良くなったので、退院ということになったのですけども、そこで、(次に)どこに受診するかという問題が生じたのです。

母親が入院施設のある病院ならいいだろうということで、地元の病院を選んだのですけども、そこで薬を山のように出されまして、飲んで、やっぱりまた辛くなって、ろれつが回らなくなって…。また同じことを繰り返してしまうので、これはいけないと思ったので病院を変えようというふうに言ったんですね。そしたらたまたまその時に母親が隣の市に、名医でありますU先生の噂を聞きまして、そのU先生に相談に行きました。

その時、U先生に、『自分はこれだけ薬を飲んでいるので、辛くてどうしようもないから診てください』と頼んだら、U先生はその薬を1つ1つ丹念に見てくださって、これはちょっと必要ないんじゃないかなとか、これは不適切じゃないかなということを、1つ1つ私や家族に説明してくださいました。それを機会にU先生の勤めていらっしゃる医院に通ったほうが良いのではないか、やっぱり信頼できるドクターが一番良いということで、そのU先生に(替え)させていただいて、納得いけたと思います。

錠剤の量でいくと3分の1ぐらいに減りました。」

Q.医療機関を変えて、症状に変化はありましたか

「U先生の処方箋になってから、(症状は)劇的に変わりだしました。だんだん安定してきまして、その精神科病院を辞めた翌年の1月から、地元の食品加工工場にパートに行けるまでになりました。26(歳)前後です。」

Q.仕事は続けられましたか

「最初の頃は、仕事に慣れないせいもあって、また服薬していたので仕事が遅くて、ののしられることもあったのですけど、あきらめずに通い続けまして、だんだんだんだん職場のみなさんとコミュニケーションを取れるようになってから、職場の関係も良好になっていきまして、最後には信頼も勝ち得て、『夜勤もやってみないか』というふうに言われるようになりました。

(夜勤)やりました。最初辛かったのですけど、最後の頃にはもう慣れてきてしまって、休憩時間に、その加工工場の売り物ですけども、『ちょっとあまったからいいよぉ』などと言って、食べて談笑したりして休み時間を過ごしたのが、すごく楽しかったです。2年近く続きました。」

Q.そのあと、仕事は?

「実はですね、その時私はU先生から、『君は、もう十分夜勤もできるようになったのだし、一般人と一緒になって働けるから、がんばりたまえ』と太鼓判を押されたのですね。で、喜んで職安で開示したら、ちょっと平たく言えばブラックリストに載ってしまったのです。

その頃まだ職安自体が、理解がなかったのです。あなたはもう来ないでくださいというようなことを、赤ちゃん口調で言われました。『僕もう来なくていいんだよ』みたいな感じで。精神病のことを、なんか知恵遅れと勘違いしていたと思いますね、その職員が。理解もないと思いますね。

こっちはもう名医である先生から太鼓判まで押されたのに、なんでそんな目に遭うんだと思って…。そこで、私は考えたのですけど、選択肢はいくつもあったんですね、冷静に考えれば。例えば、新聞の広告チラシを読んで、それでアタックする、職安を介さない就職活動をすれば良かったとも思うのですけど、その時に受けた差別的な態度があまりにも悔しかったので、『障害者でも、誰にも負けない資格とか実力を身につければ、大手を振って生きていけるんだ』とか、そういうようなシチュエーションにちょっと引きずられてしまって、それが高じて信仰にまで近くなってしまったので、それで、語学の勉強とか資格の勉強に没頭しまして、『これからは中国語の時代だぁ』などと思って、中国に語学留学することになったのです。27歳前後だと思います。」

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