「これは明確なのですけれど、二十歳のほとんど誕生日前後の時に、1回大量服薬をして(しまいました)。その時、ちょっと両親とケンカしたりしていた時期があって、遅めの思春期みたいな感じで…。それで、その時に、退院してきて帰りの車の中で父に『当てつけ?』と聞かれたんですよ。その時に、違うとも言えなかったし。
ふと考えたら、『当てつけで死ぬのってなんだろう?』と思って。『だって自分のために生きるんじゃないの?』と思った時に初めて、『あ、そっか、自分のために生きるんだ』と思ったら、『じゃあ、何があっても死んでたまるか』という感じになって…。
そうですよね。当たり前なのに、自尊心というものがあまりなかったんですよ。で、『そっか、当たり前と思えるものって当たり前じゃないんだ』と、その時にも思って。じゃあ、当たり前に生きているけど、当たり前に生き続けられるものでもないのだから、何があっても死んでたまるかと思おうと思って。今でももちろん、『死んじゃいたいなあ』と横になりながら思ってしまう時はあるのですが、『いや、なにくそ死んでたまるか』とつぶやいているのですけれど。
だから、その二十歳の時の自分の冒したことによって、本当に死んじゃったかもしれないのに、生きていて…。当たり前じゃないけど生きている。『あ、有り難いんだな』と思ってということで。そんな感じに、『死んでたまるか』という言葉がいつも頭の中をよぎっています。」
「普通だったら、たぶん私も病気じゃなかったらそんなふうに思わないんだろうなあと思います。でもやっぱり、病気になったからこそ感じられることっていっぱいあるなと思うから、病気になって良かったなと思うところもたまにはありますね。
『死んでたまるか』だったり、生きていることへの感謝だったり、家族への感謝だったり。あと、やっぱり当たり前じゃないというのは自分の病気も当たり前じゃないから、そういうことに気づけるということが有り難いなと思います。」
「さっきの話とちょっとかぶってしまうのですが、二十歳の大量服薬した時に、父に『当てつけか?』と聞かれた時に、『違う』とはっきり言えなかったことですね。辛かったです。やっぱり当てつけだったんだろうなと思った分、すごく辛かったです。両親に対して申し訳なくて…。」